ワンダーフォーゲル

 2つの山を結ぶ列車はトコトコと山あいの道を進んでいく。隣の席では目の青い愛くるしい子どもたちが戯れ合っていて、それを母親が優しくたしなめながら、こちらに向かって「すみませんね」というように目配せしている。僕としてはそれまでの曇天が晴れ渡るような気持ちのよい光景だったので、そんなこと無いですよ、という風に彼らに向かって笑ってみせた。そんな長閑な列車はフランスとスイスの国境に差し掛かろうとしていた。

 スペインを離れた後に、フランスのリヨンという街でしばらく過ごした僕は(リヨンでの日々は本文では省くが、素晴らしい街だった)、次の目的地をアルプスにした。アジアにはヒマラヤという壮大な山脈があったが、ここヨーロッパにも素晴らしい山々がある。それがアルプスだ。アルプスも昔から憧れで、例に漏れず詳しい知識は皆無なのだが、牧歌的な家々が山の斜面に建ち並び、その先に雪化粧をした美しいアルプスのある風景を、山岳列車に乗って見てみたいとずっと思っていた。アルプスと一口にいってもたくさんの山があるのだが、モンブランマッターホルンという2つの山を見に行くことに選んだ。この2つが特に憧れだったのだ。

 

 f:id:wonderwalls:20171020091244j:plainリヨンは映画を発明したと言われるリュミエール兄弟の出身地。彼らの自宅は現在博物館になっており、彼らの歩んだ軌跡を知ることが出来る。そしてその博物館近くにあるこの出口こそ、世界初の映画である『工場の出口』のあの出口なのだ。ここから映画が始まったのかと思うと、感動を禁じ得ない。ちなみにこの映画は普通にYou Tubeで見られるのでまだの方は是非。

 

 リヨンから東へと進んだスイスとの国境近くに、シャモニーというモンブランの麓の町がある。都市を離れた列車は郊外の田舎町を車窓に映しながら、快適に進んでいく。田舎町には必ず小さな広場と教会があり、それらを中心に緩やかに集落が形成されている。その合間に時折牧草地が見え、羊や牛がゆったりとした動作で草を食んでいる。どこまでもどこまでも穏やかな光景だ。そしてしばらくすると町はもう見えなくなり、代わりにそびえる山々や大きな川が現前に広がってきた。シャモニーが近づいているのだろう。

 2度ほど列車を乗り換え、最後に山岳鉄道のような小さな列車に乗り込むと、車体が緩やかに傾き上方へ位置するシャモニーへと登り始めた。天気は残念なことに曇り空で、他の乗客たちはしきりに空の様子を気にしている。そして30分ほどで、僕たちはシャモニー駅へと降り立った。

 シャモニーはアルプスによって栄えた山の町で、非常にコンパクトながらホテルやレストラン、本屋から登山用品店まで必要なものは全て揃っている気持ちのよいところだ。何といってもその景観が可愛らしく、クリスマスプレゼントのおもちゃのような愛くるしさが町全体を包んでいる。本当はこの麓の町からでもモンブランが見えるのだろうが、その日は相変わらずの空模様で何も見えない。

 

f:id:wonderwalls:20171020100018j:plainこれがシャモニー駅。シルバニアファミリーみたいな可愛いデザインの駅舎である。塞ぎ込みたくなるような曇天にも、辛うじてキュートさを保っていた。

 

 宿に着き腰を降ろすと、辺りを散歩してみた。モンブランの近くまで登るロープウェイは明朝に乗ることにしたので、この日は残された時間を町の探索と夕飯の調達に充てることにした。そしてこの夕飯をどうするかは非常に大きな問題だったのだ。

 第三世界からヨーロッパに入ってからというもの、その物価の高さには幾度も卒倒しそうになった。スペインへと渡るまでは自炊などほとんどしなかったが、ヨーロッパに上陸して以降はほとんど外食をしていない。話には何度も聞いていたが、やはり西欧は貧乏旅行者にとって試される大地のようだ。そして、スペインやフランスで既にヒーヒー言っていた僕は、ここシャモニーで更なる試練に向き合うこととなる。ある山小屋のトイレの壁に「物価は景気と標高によって変わるんだな」などと落書きされていたことがあったが、まさにシャモニーはそれだった。山の頂に近づき、更にヨーロッパで最も物価の高い国であるスイスに近づいたことも相まって、その価格はリヨンの頃とは大きく変わっていたのだ。その日の夜、僕はチョコチップクッキー1袋とリンゴ2個を慈しみながら食べ、空腹を忘れるためにさっさとベッドへと潜り込んだのだった。

 次の日の朝、ロープウェイが動き出す1時間前に目を覚ました。山の天気は変わりやすいが、朝の方が好天を期待出来る。宿の値段上、これ以上シャモニーに滞在するのは厳しかったので、今朝が最初で最後のチャンスだ。恐る恐るドアを開け宿の外に出てみると、そこには昨日と寸分違わぬ曇天が首をもたげて待っていた。どうやら賭けに負けたようである。

 何も見えない景色を見にロープウェイに乗ることにはかなり悩んだが、ここまで来て何もせずに帰るのもまた腹立たしい、というより情けない。ここから見ると厚い雲に覆われているモンブランだが、展望台まで登ればもしやその姿が見れるかもしれない、という有り得ない妄想まで膨らました結果、これも記念ということでロープウェイに乗ることにした。

 ロープウェイは僕のような観光客や、展望台から登山を始めるクライマー達を乗せ、勢い良く上昇を始めた。外は相変わらず厚い霧に覆われているので山の様子はあまり望めないが、時折その切れ間から美しい白を纏った岩肌を見ることが出来た。そうして展望台に辿り着いた。

 山肌にへばりつくように建つロープウェイ駅を出るとすぐに、猛烈な寒さが辺りを襲った。当然のことながら、夏だろうが冬だろうがモンブランは寒い。急いで展望台の中に入った。そこは大きく2つの部分に分かれており、カフェや土産物屋のある棟と、これから登山を始める人々が準備をする棟だ。あたりをグルリと回ってみると、エレベーターで屋上の展望台に出てみることにした。いよいよモンブランと対峙する瞬間である。

 とは言ってみたものの、いざ展望台に出てみるとやはりそこは吹雪の銀世界だった。モンブランどころか足先にある自分の靴が見えるかどうかも怪しい。ここまで来たのだからと目の前の景色をしばし眺めていたが、途中でどうしようも無く虚しくなり、スゴスゴと来た道を引き返した。自然のことばかりはどうしようも無い。しかし晴れた山より悪天候の方が記憶に残ることもある。現にあの展望台で見た、これからモンブランに登らんとする登山隊の勇ましさは、今でもこの目にしっかりと残っているのである。

 

 f:id:wonderwalls:20171020092811j:plain荒れ狂うモンブランへと向かうクライマーの人々。

 

  愛くるしい子どもたちとその母親もいなくなり乗客もまばらになった頃、列車は終着であるツェルマットに辿り着いた。そして夕暮れに佇む街から目を上げると、そこにはもうマッターホルンがあった。

 宿はマッターホルンを眺めながら歩いた道の先にあった。通されたドミトリーはハリーポッターが昔住んでいたような屋根裏部屋で、これで40ユーロであるからスイスは恐ろしいのである。着いた頃にはもう9時を回っており、頼みの綱であるスーパーマーケットは全て閉まっていた。レストランはあるのだが、1皿が最低でも10ユーロはするのでとてもじゃないが入れない。

 うーんと唸っていると、同じ部屋の2人組が話しかけてきた。彼らは韓国人の夫妻で、新婚旅行で世界を回っているのだそうだ。彼らに尋ねてもこの時間に空いているスーパーは無かった。今日は空腹を我慢して床に着いて、明日の朝まで待とうかなと考えていると、夫妻がこう言ってきた。

「今から夕食を作るんだけど、よかったら君も食べるかい?」

 何と夫妻は僕のことをあまりに可哀想に思ったのか、彼らの夕食を分けてくれると言うのだ。ここスイスではスーパーの品物さえも決して安くは無いので、人にお裾分けをするのもそう気軽なことでは無い。さすがにそれは悪いと思い断ると、彼らは気を使わなくていいから来なさいと僕をキッチンまで案内してくれた。

 そうしてテーブルには彼らが本国から持ってきたインスタントラーメンと、ウインナーにサラダ、ビールにオレンジジュースと豪華な夕食が並んだ。そして自分で食べるより前に、僕に食べなさいとしきりに勧めてくれた。あまりの優しさと韓国ラーメンの辛さ(彼らに言わせれば、日本でも有名な辛ラーメンは辛いうちに入らないそうだ。このラーメンは夫妻でもむせるほど辛かった、がそれ以上に美味かった)に涙を流しながらいただいた。しかしどうしてここまでしてくれるのかと思っていると、彼らは日本でボランティアをしたことがあると話してくれた。その時の人々がとても優しかったから、これはその時のお返しなんだよ、と言っていた。何とも嬉しい話だった。そして自分1人の行動が国全体の印象を決めることになるんだな、と身が引き締まった。夫妻は日本の映画が好きなようで(しかも『百万円と苦虫女』や『かもめ食堂』と言ったサブカル女子好みのセレクト)、ビールを飲みながらそんな話で盛り上がった。

 次の日の朝、街を離れる夫妻と別れの挨拶を交わすと、マッターホルンへと向かう山岳鉄道の切符を買いに駅へと向かった。昨夕の快晴はこの日も続いており、宿を出るとすぐにマッターホルンの姿が見えた。遠くからでもその雄大さは十分に分かる。

 このツェルマットの街には幾つもの山岳鉄道やロープウェイがあり、それぞれの展望台からアルプスの山々が眺められることになっている。どれも乗るとここでヨーロッパ旅を強制終了しなければならないほどに高額なので、その中からゴルナーグラート山岳鉄道に乗ることにした。これに乗ればマッターホルンを始め、モンテローザやゴルナーグラート氷河を眺めることもできる。

 やはり晴れとは気持ちの良いものである。山岳鉄道の乗車までの時間を街の散策に充てることにした。マクドナルドのコーヒーがSサイズで3ユーロしたことに軽く驚きつつ(『日本以外全部沈没』ではうまい棒が1本10万円だったので、それよりはマシと思うようにした)、ツェルマットの街をフラフラした。この街もシャモニー同様にコンパクトな山の街だが、シャモニーよりもレストランやお店の数は多く、より華やかな印象を受けた。中心街の終ったその先には、『アルプスの少女ハイジ』の世界に出てきそうな小さな山小屋が緑の山肌に点在し、初夏の穏やかな陽光を受けて気持ち良さそうにしていた。そこにはトレッキングコースもいくつかあり、小さな子どもからお年寄りまで思い思いにスイスの大自然を満喫している。どこを切り取っても絵になる街だ。

 

 

f:id:wonderwalls:20171020093312j:plainツェルマットの街並み。レストランやカフェはどれもオシャレでステキなのだが、べらぼうに高いのでおいそれとは入れない。お年を召した老夫婦がチーズフォンデュを仲良く食べながらワインを飲んでいた。多分こういう年齢層のこういう過ごし方がベストな街。

 

 山岳鉄道は駅を意気揚々と出発し、展望台へと向けて登り始めた。段々とツェルマットの街が小さくなってゆく。ちなみにマッターホルンは駅に乗る前からずっと見えている。展望台に着いて遂にご対面!というわけでは無いのでそういった感動は無いが、徐々に近づいてくるマッターホルンはその雄大さを増していくので、その味わい方もこれまた良いのである。

 列車はいくつかの駅を経由して終着であるゴルナーグラートへと辿り着いた。そこには360°パノラマのアルプスが快晴の中に広がっていた。混じり気の無い白に覆われた山々が一同に会し、僕らを囲んでいた。澄んだ空気と景色、それ以外には何もいらなかった。そして周りの山々から少し離れた向こうに、マッターホルンは変わらず聳えたっていた。遂に晴れたアルプスに出会えたのである。

 ニコンのカメラを構え、透き通った空気をも写すように、静かにシャッターを切った。

 

 

f:id:wonderwalls:20171020094200j:plainマッターホルン。この聳えるフォルムが印象的だ。この頂点から見える景色はどんなだろう。

 

f:id:wonderwalls:20171020094714j:plain展望台の様子。ここから少し登ったところにカフェなんかもある。こんなところで飲むコーヒーは格別だろうなあ。飲まなかったことをひどく後悔している。

それでも旅するバルセロナ

 10年ほど前に、ウディ•アレン監督の『それでも恋するバルセロナ』という映画があった。いかにもウディ•アレン印といった感じの、男女が惚れた惚れられた、フッたフラレたといって、恋愛が繰り広げられる作品だ。ストーリーの濃度もさることながら、目玉はなんといってもキャストで、スペインからはハビエル•バルデムにペネロペ•クルズ(この映画の後で、現実に夫婦となった)、そしてアメリカからはスカーレット•ヨハンソンという、もうこれ以上無いほどに濃厚なキャスティングだった。ラーメンで言うならば、固め•濃いめ•多めで全マシ、そして更にチャーシューを2枚追加したような感じ。とにかく、映画を見終わった後に「恋愛って怖いな〜」と、田舎の中坊にトラウマを植え付けるほどには濃密な映画だった。そしてそれは、スペインに対するある強烈な印象を与えることにもなったのだった。

“スペインってのは、やっぱ情熱的な国なんだな〜。”

 ヨーロッパを駆け巡るFlix Busは、マドリードを目指して夜のスペインを疾走していた。ジブラルタル海峡を挟んでタンジェの真上に位置するアルへシラスの街は、まだモロッコの危うげな空気を孕んでいたが、このバスに乗り込むとそこはもう既にヨーロッパだった。何がヨーロッパなのかと問われれば確たる実体は無いのだが、つまりはバスがキレイで快適だったのだ(何たって車内備え付けの液晶画面で映画が観れる!)。ヨーロッパ=清潔で洗練されている、という単純過ぎる図式しか持ち合わせていなかった僕は、このバスに乗り込むと同時に、“ああヨーロッパ、待たせたな!”と、渡辺正行しか言わないようなセリフを胸の内に吐いたのであった。

 スペインについて持ち合わせていた知識と言えば、先ほど述べた“情熱の国”ということと、マドリードバルセロナがいがみ合っているということくらいだった。これまで出会った旅人たちに、スペインに行く予定である旨を伝えると、彼らの間で必ずと言っていいほど勃発する論争があった。それは、“マドリードバルセロナはどちらが魅力的な街か”というテーマだ。バルセロナが良いという意見が多かったが、一度マドリード在住の女の子2人組とその話になった時には、彼女達は烈火の如く怒りながら、バルセロナが如何にダメな街か(そして勿論、如何にマドリードが素晴らしい街か)を力説していた。どうやらこの“マドリードバルセロナどちらが良いか論争”は、単純な二者択一の枠を越えたものであるらしかった。記憶に新しいカタルーニャ地方の独立運動にも表れているように、バルセロナマドリードは2つの異なる文化を代表するものとして、象徴的なライバル関係にある。人々の話している様子から判断するに、これは東京vs大阪の100倍くらい凄い(そういえば、大阪は大阪国という独立した国だった、みたいな小説あったな〜)。なのでせっかくなら両方とも行ってみて、どちらが良いか決めてやろ〜ジャン!という野次馬的な考えで、ノープランなヨーロッパ旅の取り敢えずの行き先を決めたのであった。

 

f:id:wonderwalls:20171003070320j:plainこちらがかの有名なサグラダ•ファミリア。生で見るとやはり圧倒的な存在感を放っていた。こんな建物が街のど真ん中にあり多くの人々に愛されているのなら、楳図かずおの家も建ててよかったんではないかと思えてくる。

 

 マドリードに着き、荷物を降ろすと、目的地も無いのでフラフラと辺りを歩き始めた。さすがヨーロッパに来ただけあってバロック様式の建物が建ち並び、その中に近代的なビルも顔を覗かせている。これまで旅してきた国々と違って、所謂先進国(他の国への差別的な意味は含意されていない、念のため)といった趣きだ。しかし何と言おうか、それが全ての街だった。決して悪くはないのだが、これまでの国々にあったヒリヒリする生気のようなものは無い。2時間ほど辺りを歩き回るともう飽きてしまった。やはり第三世界の方が旅するには面白いのだろうか。

 宿に戻りこの街について調べてみると、いくつか美術館のあることが分かった。しかも学生は無料と書いてある。美術については門外漢の僕だが、美術館に行くのは普段から好きだ。まあ作品そのものよりも、どちらかといえばあの空間そのものが好きなのだが(美術館に併設されたカフェの素晴らしさと言ったら)。しかもここマドリードのソフィア王妃美術センターには、あの『ゲルニカ』があるというではないか。これは見に行くしかない。なにせ『ゲルニカ』は多少ばかり思い出深い作品でもあるのだ。

 僕の地元は信号も無いような田舎の町で、同級生も20名ほどしかいなかった。中学校の卒業の際に、通常は業者の作った卒業アルバムを貰うと思うのだが、これくらいの人数にはもったいないと先生たちが判断したのかは分からないが、僕らの中学では木製のアルバムキットのようなものを自分たちで組み立て、そこに自分で写真を貼っていくという完全手作りの卒業アルバムを製作することになっていた。そしてその表紙には、美術の授業と連動して自分の好きな図柄を版画で彫るという作業があった。

 他の同級生たちは好きなキャラクターだったり何なりを彫っていたと思うのだが、その時僕は美術の教科書に載っていたピカソの『ゲルニカ』をふと目に止め、それを彫ることに決めたのだった。何故ゲルニカを選んだのかはよく覚えてないが、おそらくは人とは違うことをしたかったのと、そして何よりこの作品の持つ力強さと迫力に胸を打たれたからだった。田舎者の中坊にも、その絵の持つ他の絵画とは違う空気と存在感はハッキリと分かったのだ。当時影響を受けていた棟方志功のスタイルを真似して、顔を版画ぎりぎりまで近づけながら彫り進め、かくして僕の卒業アルバムには出来損ないのゲルニカが刻まれ、冴えなかった中学時代の思い出(今だって大してパッとしないのだが)と共に、今なお僕の心にも深く刻まれているのだ。

 

f:id:wonderwalls:20171003070832j:plainこちらはバルセロナの中心に位置するバルセロナ大学。日本でいうところの京都大学的なところなのだろうか。古くからのキャンパスを今なお使っており、その格好よさには頭が下がる。高層ビル化する日本の諸大学も見習ったらいいのに。

 

 ソフィア王妃美術センターは名前に相応しいほどに壮大でモダンな建物で、これを無料で拝覧出来るとは、さすがはピカソを生んだ国だ。Tシャツに褪せたジーンズという容姿を申し訳なく思いながら、中に入った。多くの常設展や特別展があったが、僕はいの一番にゲルニカへと向かった。そこはピカソゲルニカを描くまでの作風の変化やアプローチを年代順に並べた特別展で、その最後に目玉のゲルニカが展示されているという構成だった。あの作品に辿り着くまでにピカソが様々な試行錯誤を繰り返している様子を、膨大なスケッチや作品群を通して見た。天才もここまで苦悩するのかと、凡人のくせに大して苦悩していない自分を恥じながら、展示を回った。そしてついに、あの作品と対峙する瞬間がやってきた。

 多くの人々に包まれながら白塗りの壁にかけられた『ゲルニカ』は、周りの興奮とは対照的に静寂を纏っていた。しかしその静謐の中には、確かな情熱と躍動があった。想像より遥かに大きな額の中に描かれた、スペイン内戦で逃げ惑う人々。興奮の中に包まれた静寂、そしてその中に秘められた情動、という幾数にも重なった緊張感が僕を打った。教科書に載っているような海外の作品を生で見るのはおそらく人生で初めてだったので、その緊張と興奮もあっただろうが、それ以上にそういった凡庸な感情を超えた何かがそこにはあった。僕は時間を忘れて齧りつくように『ゲルニカ』を見ていた。8年の時を経て、ようやく僕の心に本物のゲルニカが刻まれたのだった。

 バルセロナの街は、確かにマドリードと比べて華やかだった。マドリードが首都であることにより否応無く質実剛健であるとするならば、バルセロナは純粋な観光都市としてその華やかさを遺憾無く発揮していた。観光都市と行政の中枢の両翼を担っている東京と大阪の関係性よりも、むしろアメリカ合衆国におけるワシントンとニューヨークの関係性の方が近いのかもしれない(ワシントン行ったこと無いんだけど)。

 バルセロナといえば、何といってもアントニオ•ガウディではないだろうか。芸術の街として多くの芸術家の作品が遍在するこの街だが、やはり圧倒的にメジャーなのは彼だろう。ついに完成することが決まったサグラダ•ファミリアを始め、バルセロナには彼の残した名作が数多くある。しかも中にはごく自然な日常として、現在も現役で使用されている建築物もある。中に入るには金がかかるが、外から見る分には街全体が無料の美術館なのである。

 グエル公園は入場料がかかるので諦めたが、他の建築群は街をふらつきながら鑑賞した。ベタな話だがやはりサグラダ•ファミリアは圧巻で、大友克洋のマンガのように細かい装飾が施されたその巨大な教会は、1つの建築物という枠を超えたシンボルとして鎮座していた。そういえばマンガ繋がりだと、何年か前に井上雄彦が雑誌『ブルータス』誌上にて、サグラダ•ファミリアを描いていたような。80年代以降の精緻なマンガ技法とガウディはどこかで呼応しているようだ。もしや彼らはガウディからああいった技法を着想したのかもしれない、などと想像し、「ガウディ“さん”を付けろよデコ助野郎!」と自分を叱責しながら、華やかな初夏のバルセロナを闊歩したのだった。

 

f:id:wonderwalls:20171003071407j:plainこちらがカサ•バトリョ。ディズニーにある土産屋みたいと思ってしまった。ちなみにバルセロナの写真しか無いのはマドリードの写真を何一つ撮ってなかったためだ。マドリードには写真には写らない良さがあるのさ。。。

 

 バルセロナの中心にはランブラス通りという有名なストリートがあり、そこには多くの店が軒を連ね、たくさんの人々で常に賑わっている。僕の宿はその通りを行った先にあったので、滞在中は毎日そこを通っていた。家族連れや観光客もいるが、そこにはもちろんアベック(カップル)も多くいるわけで、ここで僕はいかにスペインが情熱的な街であるか8年越しに再認識したわけであった。男は女の腰に手を回し女は男にしなだれ掛かり、互いをうっとりするような目で見つめている。そしてそこに子どもがいようが道の真ん中だろうが構い無く、思い思いの場所で激しいキスを交わすのだった。日本でこんなカップルがいれば奇異の目で見られるだろうが(今は日本でもこれくらい普通なのかしら)、スペインではごく普通のことらしくドギマギしているのは僕くらいである。そしてこれは何もランブラス通りに限ったことでは無く、バルセロナでもマドリードでもどこでもこういった光景は見られた。一度ある美術館に並んでいた時に前後をカップルに挟まれ、2組が激しいディープキスを始めた時には、如何ともしがたいやるせなさで、僕の心はダリのあの時計のようにねじ曲がったのだった。バルセロナを去るバスに乗り込み、またもや前席でイチャつく顔の濃いカップルを見ながら、やはりこう思わずにはいられなかった。

“スペインってのは、やっぱ情熱的な国なんだな〜。”

 

 

 

P.S

 この楽しかったスペイン旅から2ヶ月後、あのランブラス通りでテロが起き13名の人々が亡くなった。その時僕はイギリスにいたが、このニュースを聞き大きな衝撃を受けた。何しろほんの2ヶ月前に毎日テクテクと歩いていた場所だったからだ。あの時テロが起きていたとしても何の不思議は無い。そう思うと、本当に運が良かったとしか言いようが無いのだ。テロへの対策は当然必要だが、あの賑やかで華やかだったバルセロナの街が静かになってしまうのは寂しい。いつも通りの明るい街でいてほしいと思う。

 ちなみにマドリードVSバルセロナの勝敗だが、どちらもそれぞれに魅力的な街だったので、今回はイーブンということにしたい。ピカソVSガウディとするならば、芸術に勝敗はつけられないだろう。

 

砂漠とラマダン、旧市街とミントティーのビート

 モロッコに行こうと思い立ったその理由は、ほとんど無いと言って等しい。しかし理由が無いのが理由、と言えば都合がよすぎるだろうか。モロッコという国に関しては何も知らなかった。位置する場所くらいは知っていたが、首都の名前も怪しかった。とにかくどんな国か想像がつかない、分からない。ただ1つ興味深かったのは、かの昔この国にビート文学の作家たちやローリングストーンズのメンバー、ジミヘンドリックスやボブマーリーといった当時のスターがこぞって訪れていたということだった。一体何が彼らを引きつけたのか。それも含めたモロッコの“分からなさ”が僕を呼び寄せたといっていい。まだ何も知らない、というこの上無い幸福を味わいに、僕はモロッコにやってきた。

 TOTOの『Africa』がイヤホンから静かにフェードアウトしていくと同時に、カサブランカの赤茶けた大地が眼下に広がってきた。人生初のアフリカ大陸は、「君の瞳に乾杯」で有名な港町だった。イングリッド•バーグマンを探して、空港を出て宿までの街並に眼を凝らすが、街には『アイアムレジェンド』よろしく誰もいない(映画ネタが多い)。本当に人っ子1人いないのだ。店も全て閉まっていて、廃墟の街のようだ。

 不安と孤独と空腹を感じる中、宿の近くまで来るとようやく人々の声が聞こえてきた。広場のような場所で子ども達がサッカーに興じている。宿はその広場の向かいにあった。宿の主人はモロッコ緒形拳といった見た目で、味わいのある笑みを浮かべながら部屋を案内してくれた。他にいた若手のスタッフは日本語を少し知っているようで、僕に向かって「アリガトウ、センセイ!」と連呼していた。一体何のセンセイなのか。

 部屋で一息着き、忘れていた空腹を思い出したので、食料を探しに外へ出た。しかし相変わらずこの辺りも全ての店は閉まっている。いくら発展途上のアフリカとはいえ、カサブランカは有数の都市のはずだ。知らないうちに経済破綻でも起こしたのかと思い、センセイの彼に尋ねると「ああ、センセイ。今はラマダンね。だから夜になるまで店はオープンしないのね。」と笑顔で答えてくれた。

 ラマダン。日本人には馴染みの少ないだろうその信仰の実践を、僕も言葉でしか知らなかった。モロッコイスラム教の国であり、そして今は年に一度のラマダン期間なのであった。その期間は基本的に夜になるまでどの店も開かず、モロッコの人々は当然のことながら、日の出から日没まで何も口にしない。だから宿に来るまでに通った店も閉まっていたのだ。そして運が良いのか悪いのか、今年のラマダン期間はガッツリ僕のモロッコ滞在時期と丸被りしていた。

 途方に暮れていると、センセイ君が「そろそろ今日のラマダンが終るけど、センセイも一緒に食べない?」と誘ってくれた。どうやら彼らの食事を分けてくれるらしい。遠慮したが、どうせ余るんだからと肩を叩く。モロッコの食事にも興味があったので、彼の言う通りにしてみた。

 1時間ほどすると、食堂の机に料理が並び始めた。パン、パン、パンと様々なパンが並ぶ。そして魚を焼いたものと、ケバブのようなスモークされた鶏肉。あとはオレンジジュースとお茶の入ったポット。一応魚や鶏肉はあるものの、パンと飲み物が圧倒的多数を占めており、夕食というよりブレックファーストのようだった。センセイ君はラマダンが終るのが待ちきれないようで小躍りしており、それを緒形拳が優しく見守っている。

 色とりどりのパンをいただいていると、緒形さんがお茶を勧めてくれた。紅茶か何かと思い一口すするとその瞬間、ミントの匂いが鼻腔いっぱいに広がった。これは、という顔をしていると、センセイこれはモロッコティーだよ、この国ではとてもポピュラーな飲み物だよ、とセンセイ君が教えてくれた。なるほど、日本だと緑茶に当たるものらしい。しかし驚いたのはミントでは無く、その甘さだった。何しろ強烈に甘い。ミントの風味が無ければほとんど砂糖を飲んでいるのに近い。どっかで聞いたぞこのフレーズ。インドといいモロッコといい、どうしてここまで甘党なのだろう。シュガーで溶けかかった笑顔を彼に向けて、デリシャスと微笑んだ。

 

 

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場所はカサブランカでは無いが、これがモロッコティー。ハマる人にはかなりハマりそうな、ジャスミンティー的な感じかな。ちなみにモロッコティーが好きだと言うと、現地の人はかなり喜ぶ。

 

 

 次の日からカサブランカの街をブラブラしてみたが、どうやらこの街は観光向けではないらしい。食料を扱う店以外は開いていてもいいものなのに、どの店もシャッターを降ろしており、いなたい猫がその前を通り過ぎていく。ハンフリー•ボガードが見たら泣くぞ、この光景!と思ったが、ビーチに広がる青い海と空だけはどこまでも素晴らしかった。

 そろそろカサブランカを去ろうかと思っていたある日の午後、僕は旧市街=メディナの市場をブラついていた。当然観光客はおらず、地元の人々と押合いへし合いしながら混雑する通りを渡り終えると、ここで一瞬のうちに心臓が猛烈な速さで鼓動を始めた。それは、ある事実に気づいたからだ。

 外していたメガネを取り出そうと背負っていたカバンを前に持ってくると、確かにそこにカバンはあった。しかししっかりと閉められていたはずのファスナーは何故かザックリと大口を開けており、その中にあるはずのメガネとカメラが忽然と姿を消していたのだった。

 一瞬何が起きたのか分からず、そして一瞬のうちに何が起きたのかを理解した。そう、ついにこの旅で初めてのスリにあったのである。人通りの多いところではカバンは体の前に持ってくるべし、という初歩的なポイントを押さえ忘れた僕は、こうして思い出の詰まったカメラと、新宿のゾフで買ったメガネをモロッコのバッドガイに献上したのだった。

 ああ、と小さくため息をつくと、当然ながら犯人の消え去った通りを振り返った。あのカメラにはサークルの合宿で撮った写真も入っている。顔も知らない彼は、大きなザックを抱えた東洋人たちの笑顔を見てどう思うのだろう。

 次の日、朝一番で交番まで行った。戻ってくることは当然期待しておらず、被害届を貰いにいったのだ。こうなれば加入している保険会社から出来るだけ金を貰ってやる、という貧乏根性で早起きをした。

 交番に行くと、そこには2人の男がいた。デスクの向こう側に座っているからには警官なのだろうが、2人とも私服でスマホをいじっている。多少面食らっている僕の存在に気がつくとボンヤリとした目で、どうしたのかと尋ねてきた。一通り事情を説明すると、その2人組は大きく頷きながら、よく分かった、捜査をするから夕方にもう一度来てくれ。その時は受付が変っているから、その彼女に初めて来たようにもう一度事情を説明してくれ。これには深い訳があるんだ、くれぐれも初めて来たように振る舞ってくれよ、頼むよ。と言い放ち、またスマホをいじり始めた。

 何故もう一度同じ段階を踏まなくてはならないのか皆目分からなかったが、警察がそう言うなら仕方が無い。僕はスゴスゴと宿まで引き返し、そして夕方にもう一度交番を訪れた。

 受付にはヒジャブを身に着けた恰幅の良いおばさんが座っていた。彼女も私服だった。モロッコの警察は制服を持っていないのだろうか。一応先ほどの2人に言われたように初めて来た体で話し始めると、被害届を出すことは出来るが、渡せるのは明日になるよと言われた。しかしそれでは問題があった。スリに会う前からマラケシュ行きのバスを取っており、それが明日に発つ予定だったのだ。その旨を伝えると、彼女は険しい表情で苛立ち始めた。何故被害にあってすぐここへ来なかった、今日は一日何をしていたんだ、と。朝早くから来ていたのに怒られた僕はカッとなり、あの2人とのやり取りを一部始終彼女に話した。すると彼女はしばしの沈黙の後、口元に不適な笑みを浮かべながら、後ろにいる他の同僚に大声で話し始めた。そして僕に向かって、うちの同僚が大変失礼なことをした、今日中に被害届が渡せるようにやってみる、と言った。

 驚くべきことにどうやらあの2人組は、この件を担当するのを面倒くさく思い、僕にウソをつかせることで仕事を彼女たちに投げたのだった。早い話が、警察が庶民にウソをついて仕事をサボったのである。これはかなりの衝撃だった。それ、アリなの?という大きなクエスチョンマークが僕の周りを漂い、婦警の頭上あたりで破裂した。日本では警察にお世話になった機会が有り難いことにほぼ無いのでデータは少ないが、さすがにこれは無いだろう。モロッコという国のモードというか、あるスタンスをここに見た気がした。

 婦警に被害当時の状況などの質問を受けていると、入口のドアが勢い良く開き、あの2人組の片割れが入ってきた。彼女はすぐさまものすごい剣幕で彼に詰め寄ると、そこから被害届なんかそっちのけの大口論になった。サボった彼は、それは何かの間違いだ、この東洋人は自分から勝手に帰っていった、俺はそんな指示は出していない。みたいなことを言い、僕を指差して、君は何か勘違いをしていると非難し始めた。そう言われれば当然僕も戦いに応じ、当時の状況を詳細に彼女に話して、彼がいかにいい加減かを説明した。この彼は普段から信用の置けない人物のようで、彼女は全面的に僕の話を信じてくれた。最後に彼は捨て台詞のようなものを吐いて、交番から出て行ってしまった。

 マラケシュに2~3日ほど滞在した僕は、エッサウィラという海辺の街に移動してきた。当初はマラケシュのホテルで見つけた砂漠ツアーに参加しようと思ったのだが、お腹を下してしまい(フナ広場で食べたカタツムリのせいだと思う、絶対に)、どうも行くタイミングを逃してしまったのだ。しかしエッサウィラ滞在の後にまたマラケシュへと戻る予定だったので、砂漠の旅はその時でもよかった。

 エッサウィラカサブランカと違い立派な観光地で、メディナには多くの観光客がいた。しかしそこまでバリバリの観光地では無く、適度に賑わっている光景が心地いい。何でもこの街はあのジミヘンドリックスが惚れ込んで長く滞在した街のようだった。確かに防波堤から見える北大西洋に身を委ねていると、何かすごい名曲が書けそうな気がしてくる。まあ、書けないんだけど。

 

 

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エッサウィラのビーチから眺める海。この浜辺にはテラスのあるレストランやカフェもあり、欧米人の老夫婦が仲良くデートをしていた。

 

 市街をブラブラし、カフェに入って漫然と本のページをめくる日々を送っていたある日、通りの片隅に日本語を見かけた。しかも赤提灯に書かれたそれだ。周りの景色とのあまりのミスマッチ感、しかし妙にしっくりきているフィット感に惹かれて近づいてみると、そこには素晴らしい明朝体で大きく、“たこ焼き”と書かれていた。日本から遠く離れた異国の港町に、何とたこ焼き屋があったのである。

 あまりの突然の邂逅に戸惑っていると、そこへ日本人のカップルがやってきた。どうやらこのたこ焼き目当てにやってきたようだ。彼らの話では、何でもここは日本人観光客には有名な店のようだった。しかし何故モロッコでたこ焼きなのか。しかも店主は普通のモロッコ人だった。ますます謎は深まるばかりだ。

 せっかくなので買ってみることにした。日本のものと同じたこ焼き器で焼かれたそれは、正しくたこ焼きそのもので、1つ違うことといえばソースとマヨネーズではなく、少し酸っぱいタレが上に塗られていたことだった。そして一口。ウ、ウマい!かなりウマい。何なら日本にあるそこらへんのたこ焼き屋よりもよく出来ている。カリッと焼かれた生地の中にはタコの他にもイカやホタテなどの様々な海鮮が入っていた。そういえばエッサウィラは海の街だ。なんとなくここにたこ焼き屋のある理由が分かった気がした。

 

 

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これがエッサウィラの片隅にあったたこ焼き。大阪の人がどう言うかは知らないが、僕にはとても美味しかった。全てに楊枝が指してあるのがミソ!

 

 エッサウィラで爽やかな数日を過ごした僕は、一路メルズーガを目指した。マラケシュに戻る予定だったが、たこ焼き屋で出会った2人の話によると、マラケシュにあるホステルの砂漠ツアーは当たり外れが大きいので、砂漠付近の町まで自分で行き、そこのホステルのツアーに参加する方が安くて良い、とのことだった。なのでマラケシュには戻らず、砂漠ツアーの出発地であるメルズーガを目指したのだった。

 

 

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エッサウィラの港で開かれていた魚市場。日本でもよく見る光り物の魚から、アンコウのような形をした得体の知れない魚まで、よりどりみどりだった。そしてカモメがそれを空から狙っていた。

 

  バスは代り映えの無い景色を車窓に描きながら、モロッコを横断していった。乗客は途中の街でどんどん降車し、夕暮れになるころには10名も乗っていなかった。どうやらここにいる全員が、砂漠を見に来たようだ。僕も含めたほとんどがアジア人だった。

 辺りに夜が訪れ、街頭に灯りはほとんど無いので、すっかり暗闇に包まれた中を、バスはようやくメルズーガに到着した。バスから降りると、予約していた宿のスタッフがジープで迎えに来てくれていた。どうやら宿はメルズーガから少し離れた別の村にあるようだった。バスにいた他のアジア人も何名か乗り込み、みなで今日の寝床を目指し出発した。

 ジープの中には僕の他に宿泊客が4人いたが、話してみると彼らはみな韓国人だった。しかもそれぞれ別で来たらしく、英語と韓国語が飛交いながら互いに挨拶をした。そして宿に着くと夕食が用意されており、それを5人並んでつつき合ったので、食べ終る頃には互いにすっかり仲良くなっていた。宿の主人に聞くと砂漠ツアーは明日の夜に発つそうだったので、日中の空いた時間を、5人でメルズーガツアーに参加することにした。

 ジープはメルズーガの大地を疾走していた。日中のメルズーガツアーは街の近郊にある観光スポットを巡るというもので、乾いた熱気で満たされた静寂の地を、僕らは目に焼きつけていった。映画『星の王子さま』のロケに使われたというロケットを見たり(不勉強ながら、星の王子さまのストーリーはよく知らなかったが)、オアシスの現象が体験出来るスポットに行ったりと、砂漠の街らしいスポットを余すところ無く巡った。

 

 

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 メルズーガ近郊の荒涼とした風景。スターウォーズの世界観にも似たその景色、やはりどこまでも何も無いという広大さがロマンである。
 

 途中に印象深かったのが、砂漠のあるポイントで写真撮影をしていると、人形やアクセサリーといった雑貨を両手いっぱいに抱えた子どもが僕らの近くにやってきて、地面にそれらを並べ始めた。どうやら彼女は小さな小さな売り子のようだ。僕らが戸惑っていると、ツアーガイドをしてくれていた宿の主人が、この子から物を買わないでね、と困ったように言った。訳を聞くと、この子は当然ながら親の言いつけでこの仕事をしており、そのせいで学校には行かせてもらえないのだそうだ。観光客が物を買うかぎりこの子は仕事をやめられないので、買わないことが一番この子のためになるということだった。そうすれば親も諦めて学校へ行かせるようになるという。こちらを黙って見つめる彼女の目は砂漠に漂う蜃気楼のように虚ろで、その顔に貼付けられた表情は、とても5〜6歳のそれでは無かった。無邪気に記念撮影を楽しむアジア人と彼女の間に存在する、そのあまりの違和感に僕はしばしその場に立ち止まった。彼女の目に僕はどう映っているのだろうか。その後ジープは彼女を残して走り始めたが、辺りを見渡しても家らしきものは一向に見当たらず、ただ彼女の歩いてきた足跡が延々と砂漠に小さな弧を描いているのみだった。

 頭をポンポンと2回ほど叩かれると、ラクダはムクッと折り畳んでいた足を広げ起き上がった。乗り心地は良いとは言えないが、意外と安定はしている。夕闇の迫った頃、総勢15名ほどの一行は、砂漠の中にあるキャンプ地へと出発した。 

 砂漠の中をラクダは悠々と進んでいく。おそらく毎日のように観光客を乗せているのだろう。彼らの歩き方にはどこか気怠さのようなものがあり、“また観光客かよ、つまんねえなあ”とでも言いたげな足運びで、後ろに糞をポコポコ落としていく。その糞の向こうに見える砂漠は、オレンジ色の夕暮れに包まれながら地平線の向こうへと消えていっている。ラクダが大きく鼻を震わせた。

 

 

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砂漠を進むラクダの一行。降りる時にはまずラクダがしゃがむのだが、その時のカクンッ、という感覚が妙に楽しかった。あとラクダさんはみんな目が死んでいた。

 

 1時間ほどの乗馬、ならぬ乗ラクダを終え、僕らは今日の寝床であるキャンプ地へと辿り着いた。そこにはモンゴルのゲルのような大きなテントが幾張りもあった。宿に荷物を置きしばらくすると、夕食の時間となった。

 夕食はキャンプ地の真ん中にある大テーブルにて全員で取ったのだが、いざ席に着いて周りの人々と会話を交わしてみると、何と僕とフランス人の男性を除いた全員が韓国人だった。しかもそのフランス人の彼は韓国人の彼女と共に来ていたので、実質僕だけが異国人のようなものだった。

 驚いている僕に宿の主人が説明してくれたことによると、この宿は数年前までほとんどの客が日本人だったが、数年前にある日本の方が韓国人の知り合いを連れてきて、そしてその韓国の方がブログで紹介したことから、砂漠ツアーに来る韓国人の定番宿になったのだそうだ。そういえば、マラケシュでもエッサウィラでも日本人以上に韓国人と中国人が圧倒的に多かった。今彼らの間でモロッコがブームなのだろうか。

 そんなこんなで、僕(とフランスの彼)だけのために皆が英語を使ってくれ、そして時には日本語も飛交いながら(韓国では高校の選択外国語で日本語があるらしい)、楽しいディナーは過ぎていった。食事が一段落すると、スタッフたちがモロッコの民族楽器を取り出し、彼らのライブが始まった。コンガのような太鼓を使って編み出されるその音楽には軽くトランス状態になれそうなほどの呪術的なリズムがあり、薄明かりに照らされた彼らをみながじっと見つめていた。すると次の瞬間、「オッパン、カンナムスタイル!」と彼らが陽気に歌い始めたので、一気にずっこけてしまった。ちなみに後でPPAPもしっかりやっていた。

 ライブの後、キャンプ地近くの小高い丘に上がった僕らの現前に広がっていたのは、辺り一面の星空だった。夜の砂漠は星空の明かりに微かに照らされ、淡い白を纏ってどこまでも続いていた。砂は昼間の熱を失ってひんやりと冷たく、それが寝転がった腕や首筋に心地よかった。全く知らない土地の知らない大地で、こうして仰向けに星空を眺めていることが俄には信じ難かった。それほどに、幻想的な夜だった。

 

 

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夕暮れを迎えるサハラ砂漠。遥か彼方まで見渡していると、全ての感覚がフッと消え、この景色と一体になるようだった。世界は広かった。

 

 

 メルズーガを後にした僕は、一路北を目指した。目的地はタンジェという港町だ。ここからスペインへのフェリーが出ており、それを使ってかのヨーロッパへと渡る予定だったのだ。そしてこのタンジェこそは、その地理的位置から中々に興味深い歴史を味わっており(ヨーロッパ各国に攻め込まれる、征服される、国際管理にされる等々)、またビート文学の旗手バロウズが滞在して『裸のランチ』を書いたことでも知られている。どうやら彼以外にも大戦後の混乱の中でナチの残党やら犯罪者やらミュージシャンやら作家やら、つまりは一筋縄ではいかない曲者たちが大勢潜伏(滞在というより潜伏)していたそうで、そんな危うげな街の薫陶(いいものかどうかは不明)を受けに寄ってみたのだった。

 近づいてきたタンジェは思ったより綺麗な街並で、これまでのモロッコの都市と違いヨーロッパのそれに近い。海の向こうはもう欧州なので、2つの世界が混ざっているようだった。しかし旧市街に着くと相変わらずの景色と匂いで、しかも観光客向けでないあたりがカサブランカを思い出させる。

 次の日は日帰りでタンジェからほど近いシャウエンという街に行く予定だった。一面を青で塗られた旧市街で有名な、猫の街だ。しかしこの日の夜、またしても腹痛が僕を襲い始めた。モロッコ2度目の食あたりである。タンジェはやはり僕みたいなあまちゃんが来るには危険な街だったということか。もうシャウエン行きのチケットは取っていたので、次の日に行ってみるには行ってみたのだが、下痢と寒気をどうすることも出来ず、ホテルの部屋を借りてほとんど一日中床に伏せていた。こうなると街に広がる美しい青も、僕の今の気分を表しているようにしか見えない。こうしてヒーヒー言いながらタンジェへと舞い戻ったのだった。

 

 

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限りなく透明に近いブルーが広がるシャウエンの旧市街。お腹さえ調子が良ければ、きっと楽しめただろう。猫と青の街ということで、オリーヴ女子みたいなガールがたくさんいた(肩に下げているのは、オリンパスのPEN!)。

 

 次の日、僕はモロッコを離れることにした。タンジェのフェリー港は、街から少し離れたところにあり、そこまでの1時間ほどの道程を、バスは窓に輝く海を映しながら進んでいった。タンジェも結局、ろくに観光出来ないままに離れることになった。ラマダンの終りを数日に控えたタンジェは、少し浮き足立っているように見えた。ラマダンと共に始まったこの旅は、どうやらラマダンと共に終るようだ。

 きっかり1時間半遅れて、フェリーは停泊場へとやって来た。大きく体を揺らしながら、遅れたことに悪びれた様子も無く乗客の方へと大口を開け、そこから車が雪崩れ込んでくる。やはりこのスタンスがモロッコのようだった。もう慣れたことに小さく頷きながら、僕はフェリーへと乗り込んだ。

 デッキから眺めるモロッコの大地は、夕陽に照らされて輝いていた。こうして旅した後も、その正体は判然となるどころか、ますます分からなくなる国だった。そして、だからこそ面白かった。この魅惑的な“分からなさ”こそ、昔から多くの人々を惹きつけたのではなかっただろうか。バロウズもジミヘンもブライアン•ジョーンズも、それに魅了されたような気がしてならない。アフリカという未知の大陸の、ここはまだほんの一端なのだろうが、その不思議なビートは確かに僕を打った。

 ジブラルタル海峡の光る波が、アルへシラスの大地を白く白く映していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

登山れ、女神の祝福の階段を

 「何故山に登るのか?」という問いに、「そこに山があるから。」と答えたのはジョージ•マロリーという登山家だ。本当はエベレストのことを指しているそうだが、日本ではこのような問答として知られている。この話は有名で様々なところで散見されるが、しかし僕はこれがあまり好きではない。「何故山に登るのか?」という問い自体が下らないし、「そこに山があるから。」という答も偽善的だからだ。登山という行為にあるのは、そんな平易な問答ではない。何故登るのかは分からない。しかしただ、山に登りたいという単純で強烈な情動にのみ登るのだ。僕はそうして山に登ってきた。その想いの前には、「何故山に登るのか?」という陳腐な問いは蹴り飛ばされ消え去っていく。

 僕は大学で山岳サークルに所属している。しかし何も大学に入る前から登山をやりたいと思っていたわけでは決して無い。大学に入った当初は映画サークルに入りたかったのだ。昔から映画好きだった僕は、大学に合格したら映画サークルで自分の作品を撮り、平成のゴダールになることを夢見て日夜受験勉強に励んでいた。

 しかしついにやって来た大学のキャンパスで、映画サークルのブースを探していた僕は、大きな看板を掲げた人達に半ば拉致されるように強引に連れ去られてしまった。彼らは「昼飯食べるっしょ。行こうよ、行こうよ、行くよね!?」と矢継ぎ早に話しかけ、僕の答えも待たずにグングンと進んでいってしまった。看板をよく見ると、山の絵と共に、“君の人生、変えたくないか?”という文字が書かれていた。

 これが僕のサークルとの最初の出会いだ。かなり強烈なサークルで、毎日のようにごはんを奢ってくれ、また24時間ずっと何かをして騒いでいた。昼は大学近くの安食堂でほぼ油で出来たような定食を食べ、それが終ると部室で遊び、夜は行きつけの居酒屋で語り合い騒ぎ合い、空が白んでくる頃には第二の部室と呼ばれている先輩の下宿先に向かい、昼頃まで眠る。そしてまた安食堂に行く、という天国のような地獄のような日々がずっと続いていた。そして先輩達は誰1人として授業には行かなかった。

 映画サークルを探していた僕だったが、平成の現代に昭和の学生のような日々を送っているこのサークルのバンカラさに惹かれ、当初の目的を忘れて毎日のように彼らの新歓に参加していた。そして気がつけば登山靴を買い、合宿に行き、いつの間にかサークル員になっていた。だが登山について全くの初心者だった僕は、始めた当初は登山の楽しさがよく分からなかった。ただ先輩たちや同期のみなと一緒にいるのが楽しく、だからよく分からず合宿についていっていた。

 しかし先輩達がサークルの活動に自身の全てをかけて取り組んでいる姿勢に感銘を受け、登山という行為以上の何かがこのサークルにはあると感じた。そして自分もそうなりたいと続けてきた結果3年という月日が流れ、いつしかリーダーとして後輩と共に合宿を行う立場になっていた。そこには確かに山に登るという行為以上の何かがあった。そしてそれは途方も無く素晴らしいものだった。僕はこのサークルを愛している。そして登山を愛している。

 そんな僕にとってヒマラヤはやはり特別なものがあった。登山者としてはまだまだ初心者だが、やはり登山をやっているものとしてヒマラヤをこの目で見たかった。「そこにヒマラヤがあるから」行ったのではない。「ヒマラヤに会いたい」という強烈な想いが僕をネパールへと駆り立てたのだ。

 ニューデリー発の飛行機は短いフライトを終え、カトマンドゥのトリブバン国際空港へと降り立った。ネパール唯一の国際空港であるトリブバン空港はしかし、僕の地元の駅ほどに簡素なものだった。ちなみに僕は四国の生まれだ。驚くほど閑散とした空港を抜けると、おなじみの客引き達を追い払いながら安宿街へと向かった。

 ネパールに来た目的のほとんどはヒマラヤにあるといってよかった。たしかにネパールの文化や生活にも興味はあったし、ブッダ生誕の地であるルンビニにも惹かれていた。だが天候が良いうちに一刻も早くヒマラヤを拝みたかった。しかしヒマラヤと一口に言ってもそれは五国に渡る広大な山脈である。ネパール国内においても、行く地域によって見える山は当然違う。ヒマラヤと意気込んでいる割に知っている山はエベレストやK2くらいで、恥ずかしながら他のことはよく知らなかった。

 また、ヒマラヤを拝みにきたがトレッキングなどをするつもりは無かった。第一に装備を持っていないし、旅の荷物を担ぎながら登山をするのはさすがにきつかったからだ。するとしても日帰りの軽いトレッキングだろうと考えていた。そうして調べてみると、最高峰のエベレストを見るためにはカトマンドゥからかなり登らなければならないことが分かった。それに比べ西にあるポカラという街からは山に登らずともヒマラヤの山々が見えるようだ。僕はすぐさまポカラに向かうことにした。

 カトマンドゥで一夜を過ごすと、次の日の朝のバスでポカラに向かった。ネパールの道路はカトマンドゥ市内からすでに荒れたオフロードで、郊外に出る頃にはマッドマックスも驚くほどのデスロードと化していた。しかも何かの圧力がかかったのか、急に窓ガラスが粉々に大破するという事故も起きた。発砲されたのかと思い僕を含めた乗客は身を伏せたが、添乗員はよくあることなのか、「ごめんなさいね〜」という軽い表情で割れたガラスを掃除していた。ネパールもインドに負けず劣らず常識を崩される国のようだ。

 バスは曲がりくねった山道を進み、日が暮れる頃にようやくポカラに着いた。バスを降りるとホテルやゲストハウスの客引きが大勢いた。いつもは追い払う彼らだが、今回は日が暮れかけているのと安宿街について調べていなかったこともあって、彼らの商談を聞いてみることにした。様々な宿がある中で最も安かったのは、日本語を流暢に喋るおじさんのゲストハウスだった。マレーシアでの経験から日本語の上手い外国人は信用しかねたが、おじさんはどうも悪い人には見えなかった。結局、「うちの宿はヤバイいいよ〜」と笑顔で語る彼についていってみることにした。彼のバイクの後ろで揺られながら話を聞くと、日本で山岳ガイドの仕事をしていたことがあるらしい。だから日本語が堪能なのかと納得していると宿に着いた。 

 ドミトリーは値段に相応な部屋で、既に2人の先客がいた。スペインから来た女性とイギリスから来た男性だった。女性の方は明日からトレッキングに出かけるようで、色々とパッキングをしていた。男性はすでにトレッキングを終えたらしく、彼女の相談に対してアドバイスをしていた。トレッキングは楽しいだろうなと羨ましく思いつつ、そんな彼らを横目にグーグー眠りについた。

 次の日、目覚めるとすぐに街へと繰り出した。もちろんヒマラヤの絶景を見るためだ。しかしどれだけ周りを見回しても全く山の姿は無い。確かに天気は良いのだが、山があるはずの方角は薄い靄のようなものがかかっていて何も見えないのだ。 

 一体どういうことかと訝しみながら宿へ戻ると、イギリスから来た彼が起きていた。軽く挨拶を交わすと、彼が尋ねてきた。

「どこ行ってたの?」

「ヒマラヤの山を見に外に出たんだけど、何も見えなかったんだよ。ポカラは市内から山が見えるって聞いてたんだけど….。」

「ああ。今の時期はここからは見えないよ。冬場ならキレイに見えるけど。この時期はトレッキングして高地まで上がらないとダメだね。」

 何と言うことだろう。トレッキングを終えた彼をして曰く、梅雨も迫ったこの時期はポカラ市内からはヒマラヤを見られないと言うのだ。そんなことがあっていいのか。じゃあ一体何故ここにいるのかとショックに頭を抱えていると、その様子を見ていた彼がこう言った。

「なあに、トレッキングすればいいじゃない。そうすれば素晴らしい景色に出会えるよ。」

 たしかにトレッキングをすれば見えるだろうが、あいにく僕は装備を何一つ持っていない。あるのは寝袋くらいだ。そう伝えると彼は持っていた地図を開きながら、説明し始めた。

 彼の話を聞けば、この地域のヒマラヤ山脈はアンナプルナという連峰で、その全てを周回するコースだと20日ほどかかる。しかしアンナプルナのベースキャンプまで往復するコースだと5〜7日ほどの日程で行え、地元の人々が普段使っている村道がコースのほとんどだから、スニーカーでも行けると言うのだ。バックパックは既に持っているのだから、残りの登山服や雨具などはここで調達すれば良いということだった。

 当初はやっても日帰り程度のトレッキングしか考えていなかった僕だったが、彼の話を聞けば聞くほど、ベースキャンプのコースが現実味を帯びてきた。他にも3日ほどのコースもあったが、ベースキャンプからの景色はそれとは比べ物にならないそうだ。ゲストハウスの主人も「全然簡単なコースだよ〜。ダイジョブダイジョブ〜。」と勧めていた。しかもトレッキングをしている間、不必要な荷物は無料で預かってくれるようだ。こうなればもうやるしかない。僕はトレッキングの準備に取りかかることにした。

 それからの3日ほどはほとんど準備をして過ごした。登山許可証を発行してもらい、登山店で必要なものを買い揃え、地図を用意し大まかな山行計画を立てた。ポカラの登山店は恐ろしく安く、明らかにニセモノのノースフェイスやアークテリクスの商品がユニクロ以下の価格で売られていた。したがって装備を買い揃えても大した額にはならなかった。最後にトレッキングを勧めてくれた彼からストックを譲ってもらい、準備は万全に整った。

 

 

 

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本文では紹介しそびれたが、ポカラにいた時によく通った食堂の女将さんと看板娘のアシュカ。ポカラのメインストリートには観光客向けの欧米風レストランが多いが、1つ裏路地に入ればこの店のような地元民向けの食堂がある。

 

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そしてその食堂で食べたネパール名物“モモ”。餃子に似ているが、特徴はチリソースで食すこと。安くて美味く、毎日食べた。“モモ”という名前に出会ったのは、ミヒャエル•エンデのあの小説以来だ。

 

 

 トレッキング前日の午後に、スタート地点である麓の村まで向かった。スタート地点とはいえ既に山の中にひっそりと佇むそれは、日が落ちた後の深淵に包まれていた。街を囲む静寂の中を進む僕は、ふと単独行が初めてであることに気がついた。いつもならば前日のアプローチにもサークルのメンバーがいて、たわいのない会話をしているのだが、今は全くの独りだ。遠くで聞こえる犬の鳴き声や鳥の羽音にまで神経が尖ってくる。山で1人とはここまで孤独なものとは知らなかった。多少の心細さを感じていると手前に家々が見え、看板にゲストハウスの文字が書かれていた。僕は急いでその中の一軒に飛び込んだ。

 次の日の朝、チョコレートバーで朝食を済ませた僕はトレッキングコースへと足を踏み入れた。想定では行き3日、帰り3日の6日間での行程を考えており、この日はチョムロンというポイントまで行く予定だった。トレッキングコースとはいってもここからかなり先のポイントまではバスが通っているので、しっかりとした車道をテクテクと歩いていく。

 途中で車道は終り、山道へと変っていった。ここからが本番というわけだ。小川や新緑に彩られたコースを軽快に進んでいく。ネパールの山道、というより山は日本のそれと非常に似ており、ここは谷川かと思われるような道が続いている。久々の感覚に懐かしさを覚えながら、すれ違う人々と挨拶を交わしていく。梅雨も近づいたこの時期ではあるが登山客は少なく無く、様々な人種の人々がいた。ヨーロッパの山々を登るよりかなり安いためか欧米人も多く、後は中国や韓国の人々もたくさんいた。日本人はほとんどいなかった。

 昨年まで40kg近い荷物を背負って縦走をしていたので、20kgにも満たないバックパック1つでの登山に最初は余裕をかましていたが、ブランクのせいか単純に老いのせいか徐々に息が切れ、ペースが見る見る落ちて来た。しかしその主因はどんどん険しくなってきた村道にあっただろう。話を聞いていた限りではここまでの道は想像していなかった。何しろほとんどが村の道だという話だったからだ。しかしここで僕は自分の考えの甘さを思い知った。

 村の道、と聞いて僕は日本の村々を想像していた。平野に広がる田んぼの中に家々が点在する牧歌的な風景だ。しかし同じ村でもネパールのそれは山の奥地で斜面にへばりつくように存在している。そうなれば村道も当然ながら、ここが生活用の道であることが信じられないほどの険しさになってくる。川を跨ぎ、岩を飛び越え、吊り橋を渡る。なるほど彼らの言っていたのはネパール人の感覚としての“普通の村道”だったのか。1日目でこれでは先が思いやられると、僕はアディダスのスニーカーに目を落とした。

 ルートファインディングに関して言えば、コースが単純明快なことと多くの標識があることから迷う心配は低かった。しかしいくつかのポイントで紛らわしい道があり、川を渡る手前でその内の1つに遭遇した僕は、近くにいた2人組に道を尋ねた。彼らもアンナプルナを目指しているようで、たぶんこの道だと教えてくれた。

 その時は礼を言いすぐに先に進んだが、ペースがほとんど同じために、僕が休んでいると彼らが追い抜き、彼らが休んでいると僕が追いつくといった具合に、ほとんど彼らと並走しているような形になった。そうしていると何回目かの遭遇の際に、2人のうちの片方がこう言った。

「僕らはもう一緒に登っているのと同じだね。一緒にトレッキングしないかい?」

 こうして僕らは共に登山をすることになった。アメリカから来た彼らはアンドリューとコーリーンといい、会った時は夫婦か何かだと思っていたが、話を聞けば職場の同僚だそうだ。彼らはNGOの職員で、貧困層にある女性や子ども達を支援するためにネパールに来たそうだ。そして仕事が終ってアメリカへ帰る前に、トレッキングをしているらしい。「他の同僚は仕事が終るとすぐに帰っちゃったけど、ネパールの自然や文化に触れずに帰っちゃうなんてもったいないよね。」と話す彼らはとても気さくで、すぐに仲良くなった。拙い僕の英語にレベルを合わせてくれ、ゆっくり話してくれるので、英検3級の知識でも何とか会話をすることが出来た。

 道中は様々な話をした。彼らの仕事に関する話題から日米の政治に関する話、果てはアメリカのポップスに至るまで、話は多岐に渡った。特に印象に残っているのは、彼らが休憩の度に持っているシリアルバーをくれるので、申し訳なく思いそれを伝えると、僕らもトランプを大統領にさせてしまったことで世界中の人々に申し訳なく思っているから、これでおあいこだよと言って笑っていたことだ。洒落の通じる彼らと会話を楽しんでいると、険しい山道もどんどん前へと進んでいった。

 彼らの計画は2日で登り2日で下るというかなりハードな行程で、この日はバンブーという地点まで行くということだった。別にどこで泊まらなくてはいけないということも無かったので、一緒に行ってみることにした。しかし思いのほか時間がかかり、どうもバンブーには間に合わないということになったので、チョムロンを少し越えたポイントで宿を取ることになった。2人とは別の部屋を取ろうとしているとアンドリューが、君が良ければ一緒に3人部屋で泊まらないかと尋ねてきた。もちろんイヤなわけは無いので、何と部屋まで共にさせてもらうことになった。こうして僕らは寝食を共にする1つのパーティーになったのだった。

 3人でミーティングをした結果、どうも2日でベースキャンプまで辿り着くのは難しいということになり、3日で余裕を持って登ることになった。そして明日はベースキャンプ手前にあるデウラリというポイントまで進むことにした。翌朝も早いので、夕飯を済ませるとすぐさま寝床に着いた。

 次の日、好天に恵まれた僕らはサミットを目指して出発した。そろそろ木々が少なくなり平原や氷河が視界に現れるかと思っていたが、まだまだ谷川の景色だ。お互いのペースを確認し合いながら、一行はヒマラヤの大地を踏みしめていった。しかし午後になるにつれて天気は下り坂になり、小屋に着く頃には滝のような雨が流れていた。全身水に浸された僕らは何とか今日の寝床へと辿り着いた。夕食で食べたダルバートが体に染み渡った。

 

 

 

 【特集】シティーボーイのABC(アンナプルナ•ベースキャンプ)

やあみんな、元気してるかい。シティーボーイにとって楽しみな夏休みがやってきたけど、みんなはどう過ごそうとしているのかな。海辺でのサーフ、ミニシアターで映画三昧、気の合うクルーでドライブしてチルアウトなんてのも外せないよね。でも今年は登山っていうのはどうだろう。今ポートランドやブルックリンよりもヒップな街、ポカラからは数日でヒマラヤの大景色まで行けちゃうんだ!その名もアンナプルナ•ベースキャンプ、通称ABC。あの憧れのヒマラヤに君もチャレンジしてみないかい。

 

1.雨が降ったらレインコートを、チャイにはマサラを。

せっかくの楽しい登山も、快適に登れなかったら気分がブルーだよね。特に防水対策はしっかりとしておきたいところ。何でも8~9月はネパールで1番雨が多い時期なんだって。だから雨具やスパッツ類は必ず持って行こう。登山靴も雨を通さないしっかりしたものが良いね。間違ってもスニーカーなんかで登っちゃダメだよ。そして冷えた体はマサラチャイで暖めよう。

 

2.こんなロッジに泊まりたいんだ。

登山と聞いてテントを買おうとしたそこのキミ。心意気はナイスだけど、その必要は無いんだ。なんたってABCのコースにはステキなロッジがたくさんあるからさ。しかも1泊1000円くらいでとてもリーズナブル。日本だと手が出ない小屋泊も、ネパールだと気軽に出来るんだ。テラスで夕暮れを眺めながらビールで乾杯なんて、ステキじゃないか。

 

3.なんでこんなにカレーが好きなんだろう。

おなかが空いた時、道行くロッジや食堂には美味しそうなメニューが並んでいる。トマトパスタも魅力的だし、チャーハンも捨てがたい。中にはブリトーなんて売っているところもある。でもABCに来たなら、ぜひダルバートを食べよう。ダルバートはネパールカレーのことで、ネパールではとてもポピュラーな食べ物なんだ。見た目はインドのミールスなんかに似ているけど、インドカレーと違ってマイルドで、キミの口にもきっと合うはず。しかもルーや付け合わせはおかわり自由なんだ。ダルバートで力をつけて、さあABCまで後少し!

 

 

何て楽しそうな登山だろう。みんなにも是非行ってほしいな。え、肝心のアンナプルナについて何も書いてないって?そこは『放浪紀行宣言』を最後まで読めばその素晴らしさが分かるから、チェックしてみてね。じゃあ、またね。

 

次号特集『僕の好きなカトマンドゥカトマンドゥですべき101のコト〜』

 

 

  閑話休題。さて、いよいよベースキャンプを目指す日になった。朝のコーヒーで気分を落ち着けると、ザックを持ち上げた。アンナプルナベースキャンプの手前にはマチャプチャレベースキャンプがあり、ひとまずそこまで進むことにした。ここまで来ると木々も少なくなり、草原のような広々した景色が広がっている。山頂側に来たということなのか天気は不安定で、雲は速いスピードで流れていた。視界は悪く雨も激しくなってきたので、マチャプチャレベースキャンプの小屋に入って様子を見ることにした。

 雨が止むのを食堂で待っていると、小屋で泊まっている人達がやってきた。その中のスペインから来たというヒッピー風のカップルは、ABCが晴れるのを1週間も待っているという。そんなに待ってもこれから天気はますます悪くなる一方なのにと思っていると、彼らがいなくなった時にアンドリューがこう言った。

「なあ、シンタロウ。彼らは、登山や旅の楽しみは綺麗な景色や目的地にあると思っている。だから1週間も待っているんだ。確かにそれも大きな目的だけど、でも大事なのはそこじゃなくて過程なんだ。登山や旅はそこにいくまでの過程やそれ全体が素晴らしいものなんだよ。だから頂上で良い景色が見られなくても、僕はこの旅に満足してるよ。」

 アンドリューの言う通りだった。僕もサークルで登山をしていた時、確かに美しい景色に会えた時は嬉しかったが、それよりも合宿そのものやそこに至るまでの取り組みの方が大事だと思っていた。その行為全てが美しいと思っていたからだ。なのでアンドリューやコーリーンが同じ考えであることを嬉しく思った。彼らとパーティーを組めたのは、本当に幸せなことだ。そして雨が弱まったのを見て、僕らは外へ出た。スペインから来た彼らはまだ食堂で外の景色を眺めていた。

 ベースキャンプからABCまでの2時間足らずの道程は、清々しいほどに素晴らしいものだった。広大な平原の中に氷河が点在し、ナキウサギの鳴き声が響く。建物は無く、人も無く、あるのは山と氷河と風だけだ。その頃には雨も止み、僕らはヒマラヤの自然に抱かれるようにそこにあった。

 到着したアンナプルナベースキャンプは、2つのロッジのある広々とした場所だった。プロの登山隊はここから登山がスタートだが、僕らの登山はここまでだ。まだ下りがあるが、ついに目的地へと辿り着いたのだ。少なくない登山客がそこにはいて、みな空が晴れるのを待っていた。

 空は相変わらずの曇り空だった。途中で晴れるかと思われる時もあったが、結局アンナプルナが姿を現すことはなく夜がやって来た。景色が見えなくても楽しい登山だったが、やはりここまで来たら少しくらいはヒマラヤの山々を拝みたい。希望を明日の朝に託し、眠りに着いた。

 次の日の朝、一番に外に出たコーリーンの興奮した声で目が覚めた。「山が見えるよ。雲がドンドン晴れて来てる!」急いで外に出ると、昨日まで姿を隠していた山々が現れようとしていた。僕らは急いで展望台まで駈けていった。

 アンナプルナの主峰はまだ雲に覆われていたが、他の山々は曇り空ではあるがその姿を見せていた。アンナプルナ麓の氷河も姿を現し、僕らは長い間、静寂の世界に身を浸した。しかし雲がすぐにやってきて山を隠し始め、そしてまた曇天になってしまった。完全な景色とは言えなかったが、少しでも山々が見えたことに満足し、僕らは下山の準備を始めた。

 相変わらず雲に包まれたアンナプルナを背に、僕らはABCを出発した。しかしそこからほんの10分も経たない、アンナプルナの看板がある辺りで僕らは立ち止まった。そのときある奇跡が起きようとしていたのだ。

 先ほどまでアンナプルナを覆っていた雲が急速に姿を消し始め、その先から輝く朝陽が顔を出し始めていた。体を照らす陽光に気がつき僕らが足を止めると、そこでは景色が一変しようとしていた。厚い雲はどこかへ行き、360度が晴れ渡り、世界の尾根、アンナプルナがついに僕らの前に姿を現したのだ。

 ついに対峙したアンナプルナは、晴れ渡った空の中で超然と屹立していた。その姿は雄々しく、そして美しく、ここまで来た僕らを祝福しているようにも、また冷たく見下ろしているようにも見えた。エベレストよりも厳しいといわれるこの山には、他を圧倒する緊張感があり、それが静かにその場を支配していた。陽光を受けて輝く岩肌は、無骨な男の肌にも、絹のように滑らかな若い女の肌にも見え、その山々の連なりは青いキャンバスを真白で繊細なタッチで駆け巡り、寸分の狂いも無い自然の芸術を表出させていた。

 

 

 

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アンナプルナ南峰。早朝の張りつめた空気の中に聳えるその姿は、神々しいほどに美しかった。

 

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マチャプチャレ。「魚の尾」と呼ばれるそれは、青空の中を悠々と泳いでいた。

 

 

 僕らは言葉を失い、ただそこに立ち尽くした。僕は俗に神と言われるものを信じないが、この時ばかりは人間の存在を超えた何かを感じた。後で知ったことには、アンナプルナは豊穣の女神と呼ばれているらしい。最後の最後に、僕らは女神の祝福を受けたのだった。ようやく腰を上げ下山を再開すると、ベースキャンプの方から昨日のスペイン人カップルが急いで登ってきていた。しかしその頃にはまた雲が山にかかろうとしていた….。

 その日の夜、僕らは露天温泉に入った。下山途中のジヌーというポイントには露天の温泉があるのだ。アンナプルナが見られたことにネパールビールで祝杯を上げた僕らは、山の中にある温泉へと向かった。

 宿のすぐ近くにあると思っていたそれは、山道を進めど進めど現れず、20分ほど下った川のほとりにようやく現れた。受付のような建物があってその隣に温泉があるものとばかり想像していたが、そこには森の暗闇の中になみなみと湧き出る温泉が裸のままポツンとあるのみだった。そこにあると知らなければ過ぎ去ってしまいそうなほど自然と同化している。

 僕らは服を脱ぎ捨て生まれたままの姿になると、その泉へと飛び込んだ。天然で湧いているその湯加減は丁度良く、トレッキングで疲れた体に染み渡った。川の流れる音と僕らの息づかい、温泉の湧き出る音以外にそこには無く、静寂が辺りを包んでいた。暗闇の森に目を向けると、幾つもの光が辺りを漂っている。蛍だ。そして空を見上げると、そこには無数の星空が広がっていて、その中に佇む月が僕らを優しく照らしていた。ヒマラヤのただ中に僕らだけだった。その尊さと、もうすぐやってくる2人との別れを感じながら、僕は星空に近づこうとする蛍をいつまでも見ていた。

 その後無事に下山した僕らはアメリカで再会することを約束し、アンドリューとコーリーンは帰っていった。僕のネパールビザも残り少なくなっていたので、カトマンドゥに戻ることにした。次の国はモロッコだ。夕刻のフライトまでの1日を、カトマンドゥ観光をして過ごすことにした。カトマンドゥにはこれといって観光スポットは多く無いので、2人が勧めてくれたモンキーテンプルまで行ってみることにした。

 モンキーテンプルは猿が多いので観光客からはそう呼ばれているが、本来はスワヤンブナートという立派な寺院である。寺院は丘の頂上にあり、そこまで延々と続く階段を登らなくてはならない。また登るのかと汗をかきながら進んでいると、隣で猿がこっちを見て笑っていた。

 辿り着いたそこからは、カトマンドゥの市内が一望出来た。ここはドラマ版『深夜特急』のネパール編で、カトマンドゥに到着した大沢たかおが初めにやってきた場所らしい。彼のネパール旅はここから始まったが、僕のネパールはここで終るようだ。トレッキングで全てを過ごしたネパール旅だったが、アンドリューやコーリーンとの出会いから女神の祝福まで、幸運に恵まれた旅であった。何より電波も入らない環境の中で、仲間と共に自然と向かい合い、自然のただ中にあったこの5日間は、登山というものの尊さを改めて感じさせてくれた。やはり僕は登山を愛している。

 

 

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スワヤンブナート頂上からのカトマンドゥ市街。次にここに来る時はどのような景色としてこの眼に映るだろうか。

  

 眼下に広がるカトマンドゥは長閑な姿で、その向こうには山々が見える。そのさらに向こうには、僕らのいたアンナプルナもあるのだろうか。そしてそのずっと先には、モロッコがある。そして確かにその時、僕にはメルズーガの砂塵が空高く舞い上がるのが見えた。 

夜行列車と乞食たち

 率直に言うと、僕はインドに負けた。かの昔、藤原新也は『印度放浪』でこう記している。

“青年は何かに負けているようであった。多分青年は太陽に負けていた。そして、青年は大地に負けていた。青年は人に負け、熱に負けていた。青年は牛に負け、羊に負け、犬や虫に負けていた。青年は汚物に負け、花に負けていた。青年はパンに負け、水に負けていた。青年は乞食に負け、女に負け、神に負けていた。青年は匂いに負け、音に負け、そして時間に負けていた。青年は、自分を包み込むありとあらゆるものに負けていた。”

 まさか藤原氏と自分を並べるほど野暮では無いが、僕は彼のこの言葉の意味がよく分かる。いや、正確には分かるようになったのだ。インドを旅して、僕も自分を包み込む全てのものに負けたようだ。インドは全てを覆し、淘汰し、そして超然とそこにあった。僕の存在など、ダールの中に入った一粒の豆のようなものだった。

 マレーシアからチェンナイに着いたのは、朝の9時過ぎだった。郊外にある空港で入国審査を済ませ外に出ると、出口の前にはフェンスに乗り出さんばかりの大勢の人々がいた。出迎えにしてはやけに人がたくさんいるなと不思議に思っていると、彼らは僕の姿を見るなり一斉に大声で叫び始めた。

「ハロー、マイフレンド!タクシー!!」

 そう、彼らは全てタクシードライバーだったのだ。正確には三輪バイクのリクシャードライバーだ。飛行機の到着を心待ちにしていたようで、みな目を輝かせながら声を張り上げている。僕は列車を使って市内に移動するつもりだったのでリクシャーは必要無かったが、駅は空港から少し離れたところにあった。それはつまり、このドライバーの大群の中をかき分けて進まねばならないということだった。

 一歩前に進むたびに大勢のドライバー達が押し寄せてきた。きついインド訛りの英語を早口で喋りながら、次から次へと話しかけてくる。それはさながら新歓期のキャンパスのようだった。どうやら早くもインドの洗礼を受けているようだ。僕は苦笑いとジェスチャーでどうにか彼らを振り切り、駅へと急いだ。ホームに着く頃には、既に玉のような汗をかいていた。しかし、洗礼はこれでは終らない。

 車輪を軋ませながらやってきた列車には、当然のように扉が無かった。そして満員の車内からはみ出した人々はその扉の無い出入り口にしがみついて乗車していた。話には聞いていたインドを象徴する光景だが、ここまで日常の風景としてやってこられると感動を通り越して唖然としてしまう。そして車内には溢れんばかりのインド人がいた。黒い肌、パーマがかった短髪、そしてギョロっと飛び出た眼。まさにインド人としか形容しようの無い人々が一斉にこちらを見てきた。東南アジアの国々は色々な人種の人々が混在していたが、そこには見事にインド人しかいなかった。そして僕が唯一の異邦人のようだ。車内に乗り込んだ僕は大勢の乗客にジロジロ見られながら目的地を目指した。彼らは声もかけず微笑みもせず、ただ真顔でボーっと僕を見つめていた。こうしてインドでの日々が始まったのだ。

 例に漏れず、インドでの計画も特に決めていなかった。見たいものはタージ•マハルとガンジスの沐浴くらいで、他の知識はほぼ無かった。しかし、上記の2つは共に北インドにある。しかし今いるチェンナイは南インドだ。何故わざわざ反対側の南インドに来たのか。これにはある理由があった。

 インドに行こうと思い立った当初は、ニューデリーコルカタといった北インドから入ろうと思っていた。しかし旅に出る直前にある雑誌を読んでいると、南インドの方が北よりも人が穏やかで治安も良いと書いていた。気になって他の本を当たってみると、やはり南インドの方が旅をしやすいと言っていた。インドは盗難や詐欺が多く初めての人は大変だという話は聞いていたので、ここは南インドから出発してある程度慣れてから北に行こうと考えたのだ。こうしてチェンナイに辿り着いた次第だ。

 宿を取り荷物を置くと、さっそくチェンナイの街へと繰り出した。チェンナイはインド第四の都市で、国内ではかなりの都会に入るはずだ。しかし街は古びた建物が砂埃に抱かれながら立ち並び、道路は至る所が破損しておりそのままになっている。言い方は悪いが、戦後の闇市のような雑多な街で、来る前に聞いていたITと映画の街にはとても見えなかった。車とバイクとリクシャーがけたたましいクラクションを鳴らしながら我先にと行き交い、歩道には溢れんばかりの人、人、人……。

 しかし何よりも驚きを持って僕の眼に飛び込んできたもの、それは牛だった。インドはヒンドゥー教の国であるので牛が街中を平然と歩いているという、何回聞いたか分からないこの有名な話は当然知っていたが、しかしその光景を事実として現前に迎えるとやはり圧倒的なものがあった。牛は道路の真ん中を悠然と歩き、人々はまるでそれが猫かなにかのように平然と隣を歩いていた。車やバイクは牛が渡り終えるまでずっと待っているので、牛の後ろには長々と大渋滞が出来ていた。しかし牛はそんなこと一切気にすることなく、時折間延びした鳴き声を上げながらインドの大地を行くのだった。

 

 

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こちらは牛車を引く牛さん。インドの街にはいたる所に牛の糞が落ちていて、これが中々強烈な臭い。しかし、牛さんはそんなこと歯牙にもかけない。
 

 チェンナイの街にはどうも特に観光名所は無さそうだった。海外から来る者は単に空の玄関口として利用するようだ。仕方が無いので、イギリス植民地時代に作られたというジョージタウンまで行ってみることにした。大勢の人々で混み合うバスの最終地で降りると、そこがジョージタウンだ。

 それはジョージタウンという名の名残を一切感じさせない場所だった。建物は占領時代に作られたのだろうが、長い年月をかけてインドの人々が住んで来たこの地区にはイギリスのイの字も無かった。あるのは地元の人々の強烈な熱気だった。狭い路地を覆い尽くすように並んだ店の数々。歩道には永遠に続くかに見える屋台の行列。そしてそこを行き交うインド人の群れ。ここは特に観光名所でも無いので、観光客はほぼいない。地元の人々の生活が根付くこの地区を歩いてみることにした。

 路地に入るとすぐ子ども達がかけよってきて、「ジャパン、ピクチャー!!」と声をかけてきた。カメラを向けるとさっきとは裏腹に、恥ずかしそうにポーズを決める。小学校高学年程の女の子達とその弟らしき男の子だったが、みな裸足だった。そして写真を撮り終わるとその元気な足でどこかへ走っていってしまった。しかし僕も行こうかと進み始めると先ほどの男の子が戻ってきた。今度は自分1人の写真を撮れというのだ。ませた子だなと思いつつカメラを向けると、すくっと背筋を正し、挑むような眼でレンズを覗き込んできた。その姿に僕はある種の緊張を感じた。これからのインドを背負う子どもの逞しさ、そしてインドの未来の逞しさを見た気がしたのだ。写真を撮り終わると彼は一目散に向こうへ行ってしまった。濛々と砂埃の立ち籠める路地の中、裸足で力強く駆ける彼のその姿にインドの強さの一端を見た。

 

 

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力強い眼差しが印象的だったジョージタウンの少年。今後インドはさらに大国になると言われているが、彼のような子ども達がその未来を作っていくんだな。

 

 ジョージタウンで市場を冷やかしつつ堪能した僕は、家に帰ることにした。バスで帰っても良かったが、街の探索も兼ねて歩いて帰ることにした。

 車の行き交う大通りを抜けると、橋の入口に至る。橋はこの街を流れる川にかかっており、川の対岸が僕の宿がある地区なのだ。眼下に建つ学校と思しき建物のグラウンドで運動に興じる学生を上から眺めながら橋を渡っていく。

 そして橋はついに川を見下ろすところに来た。何気なしに景色を見ていた僕はそこで立ち尽くしてしまった。そこに広がっていた光景から目が離せなかったのだ。

 それは肩を寄せ合うように立ち並ぶトタン屋根のスラム街だった。川の岸に密集して建っているその中には、ボロを着て子どもを連れている女性の姿が見えた。所々にドラム缶のようなものがあり、おそらくそこで火を起こすのだろう。スラムの家々はトタン屋根に布を被せた簡素なもので、中にはただのテントのような家もある。そして反対側の岸には枯れた低木が立ち並び、大量のゴミが捨てられている。そしてその中をあちこちが禿げている不健康そうなブタや犬が歩き回り、僅かな食料を漁っていた。

 インドに着いてから乞食などの貧しい人は既に見ていた。僕が泊まっている宿の周りにも汚いボロを身に纏った老人や物乞いをする親子連れなどが道路の両脇に並んでいて、確かにそれは眼を覆いたくなる光景だったが、それに近いものにはバンコクでも会っていた。しかしここまではっきりとしたスラム街を目の当たりにしたのはこれが初めてだった。貧しさが寄り添い合って1つの集落を作っていることにも驚いたが、それ以上に強烈だったのはそのスラム街が川の中にあるということだった。川の堤防の外にはごく庶民的な家々が並んでおり、スラム街だけがその堤防の内側に隔離されるように存在していた。そして橋の上から、堤防の外側から、そこがスラム街であるということが鮮明に分かるようになっているその構造こそ、最もショッキングなものだった。チェンナイの地元の人々にも、川の向こう側の人々はスラムの人々なのだと瞬時に分かるその構造は、恐ろしいほどに残酷なものだった。僕はインドに来て庶民の暮らしを見ていたように感じていたが、その川の境界線には僕には決して超えられないボーダーがあった。そしてその向こう側にはもう1つのインドがあった。その大いなる河は、僕が単なる一介の観光客に過ぎないということを痛切に教えていた。

 この旅を始めた当初、僕はその土地に行きそこに根付く人々の暮らしを見たいと考えていた。完全に同じ生活は無理だが、唯の観光客にはならず、地元の人々と同じものを食べ、同じ景色を見て、出来るだけその土地の人々のように暮らしてみたいと考えていた。しかしその河は、それが単なる思い上がりであり、僕は日本から来た興味本位の観光客だと言っていた。河は彼方と此方を超然と区別し、そして僕は此方側の人間だったのだ。僕には橋の上からそのスラム街を眺めることしか出来ない。僕はそのスラム街を日が沈むまで取り憑かれたようにずっと見ていた。

 次の日、僕は荷物をまとめ宿を飛び出した。昨日見たスラム街の景色がずっと頭から離れなかったのだ。先に進まなければならないというより、これ以上チェンナイにいてはいけない気がしたのだ。僕は半ばあのスラム街から逃げるようにして街を出た。

 その後はマハーバリプラム、ポンディシェリと近くの街を一日ごとに移動した。マハーバリプラムはバターボールで有名な村で、そこまで観光地化されておらず居心地の良い場所だった。ポンディシェリはフランス風の建物の立ち並ぶ地区のある洒落た街で、インドにいることを忘れさせるような風景だった。そうして矢継ぎ早に街を移動した僕が次に目指したのは、ケーララ州だった。

 

 

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マハーバリプラム名物のバターボール。当然だがどう押してもビクともしない。日本でよく見るように、インドの受験生もここに来て「絶対落ちませんように〜。」とかやっているんだろうか。

 

 

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美しいポンディシェリの街並。ちなみにフランス風の建物が並ぶ地区は海沿いのみで、あとは普通のインド街なので要注意。インドのブルジョア達がバカンスで遊びに来ていた。
 

 ケーララ州はインドの中でも教育水準が高く、治安の良い長閑な州として知られている。そのケーララの中心地であるコチという街で何日か過ごそうと考えたのだ。クーラーの効きすぎた夜行バスに揺られながら、僕は西に向かった。

 コチは海に面した静かな街で、僕はこの街をとても気に入った。コチは4つの地区から構成されるが、僕が滞在したのはフォートコチという海に突き出た半島の地区で、チェイニーズ•フィッシングという独特な漁法とキリスト教会で有名な地区だった。

 

 

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ケーララの優しさを代表したようなリクシャードライバーのおじさん。良い人というか商売気が全くないというか、ちゃんと地元プライスで乗せてくれた。どことなく日本の田舎にいるおじさんにも見える。
 

 コチの人々は優しかった。チェンナイではタクシーの客引きなどがかなりしつこかったが、コチの人々は断るとすぐにどこかへ行ってしまう。また値段も良心的で、観光客からぼったくろうという気は無さそうだった。みな海辺の周りでゆったりと過ごしており、中には何を生業に生きているのか分からない人々もたくさんいたが、それをも包み込むほどに街の空気は穏やかだった。僕は朝に露店でチャイを飲み、昼は食堂でミールスを食べ、あとは街をふらつきながらただ海を眺めていた。

 チャイはインドで最もポピュラーな飲み物だ。みな息をするようにチャイを飲む。『深夜特急』で沢木氏がインドで毎朝チャイを飲んでいたことから、インドに来たら朝はチャイだと自分で決めていたのだが、本場のチャイは日本のものとは少し違った。日本のチャイはスターバックスで飲めるもののようにシナモンなどのスパイスが強烈に使用されているが、インドのチャイはスパイス色が薄めで、濃厚に甘いミルクティーだった。ちなみにコーヒーも相当に甘く、ほぼ砂糖を飲んでいるのに近い。これを毎日飲んでいるからインドの大人は恰幅が良いのだろうなと納得しつつ、とにかく毎日飲んだ。

 ミールス南インドでポピュラーなカレー定食で、数種類のカレールーに漬け物のような副菜、そしてヨーグルトのようなデザート、それにライスがついて100円そこそこという破格的な安さだった。ミールスは昼限定で午後には終ってしまい、そして大抵どの食堂にもある。バンガロールという街の駅前にあった食堂は立ち喰いミールス屋で、日本でいう立ち食いソバのように多くの人が立ったままミールスをかき込む様は強烈なものがあった。僕はインド滞在中このミールスも毎日のように食べた。食べ方はもちろん右手のみを使い素手で食べるインドスタイルで、最初の方は慣れずに周りのインド人から笑われていたが徐々にコツが掴め、インド滞在も終りの方ではかなりネイティブに近い形になっていたと思う。

 

 

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これがバンガロールで遭遇した立ち喰いミールス。出発までのわずかな時間に大勢のインド人たちがミールスをかっ込む様は、さながら新橋のサラリーマンのよう。

 

 コチで数日を過ごした僕はアラップーザという南の町に行った。ケーララの南部は細かな川の入り組む水郷地帯になっており、そこを船で巡るツアーが数多く出ていて、アラップーザはその起点となる町だった。バックウォーターと呼ばれるその水郷地帯をのんびりボートで巡った僕がそして次に向かったのは、ハンピという村だった。

 ハンピという村の存在はインドに来るまで知らなかったが、チェンナイの宿で出会ったバックパッカー達がみなオススメの場所として推していたので、行ってみようかとなったのだ。しかしこのハンピは片田舎にあるため、列車とバスを乗り継ぎ、丸一日ほどかけてようやく辿り着いたのだった。

 しかしハンピは、その長い移動時間をかけても来る価値の十二分にある素晴らしい場所だった。昔は王国があったというハンピは村全体が遺跡で囲まれており、いたるところに遺跡があった。また長い年月が作り出した巨石群が遥か遠くまで連なっており、神秘的な雰囲気を宿していた。それほどに観光地として素晴らしいにも関わらず、交通の便がかなり悪いためにそこまで観光地化されておらず、村には観光客向けの居心地の良いレストランが数軒とゲストハウスがあるのみで、どこを切りとっても居心地の良い場所だった。

 ハンピに着いた初日、僕は現地で出会った日本人の方と村全体を見下ろせる丘の頂上まで登ってみた。夕暮れ時のオレンジ色に染められたハンピは日本には有り得ない景色で、自分が遠い異国に来たのだなと改めて感じた。それに今まで旅をしてきた中で、観光地らしい観光地はこれが初めてだった。東南アジアでもインドでも、どちらかというと街を歩き回ることがほとんどだったので、ようやく海外を旅している気分になったのだった。しかし心のどこかでまだ、あのスラム街の光景が忘れられないでいた。

 

 

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丘の頂上から見たハンピの景色。ちなみに写真の人物はハンピの浮浪者では無く、日本からの観光客。

 

 

 チェンナイの後に旅したコチやアラップーザ、ハンピなどは南インドということもあってかどこも治安も良く長閑な場所だった。しかしどんなに穏やかな街にも確実に貧困層は存在した。道路の片隅でうずくまる親子の乞食。グラウンドのような原っぱに建てられた無数のボロテント。駅の構内を永遠に徘徊するあばらの浮き出た痩せこけた老人。東南アジアで見たどの貧しさよりも、インドの貧しさは鮮明だった。

 インドには富裕層ももちろん存在した。近年経済成長を続け、IT大国となっているインドにはリッチな人々も少なからずいた。それにリッチとまではいかずとも、IT企業に勤めているといったようないわゆるインテリの人々にも会ったりした。そして驚いたことは、裕福な人々も貧しい人々もお互いのことをどうとも思っていないようであったことだ。一般的な感覚であれば貧しい人々は裕福な人々に施しを求め、あるいは嫉妬するだろう。反対に裕福な人々はそのような貧しい人々を蔑み忌避するだろう。しかしインドはどちらがどちらをも当然のこととして受け入れていた。そして自身の立場に対する誇りや恥、相手の立場に対する蔑視や羨望は無さそうだった。実際に本人達に尋ねたわけでは無いので実際のところは分からない。しかし彼らの振る舞いや態度から、そのように思えるのだ。裕福な人々は乞食達を見て見ぬ振りなどしないし、乞食は裕福な人達だけでなく、自分とあまり変らないような身なりの人々にも物乞いをしていた。貧しいものも富めるものも超然としてただそこにあった。『印度放浪』にて藤原新也は、ヒンドゥー教には輪廻転生という観念があるからインドの人々は自分の今の立場にこだわらないんだ、というようなことを言っていた。今が貧しくてもいつか生まれ変わるから、今を受け入れて自然と生きる。これが藤原氏の言っていた光景なのかと、その時僕は彼の言葉の意味を理解した。

 しかし富と貧が共存する光景は、日本という国から来た僕には壮絶なものがあった。そして毎日目に飛び込んでくるその剥き出しの貧しさから、僕はだんだんと目を逸らしたくなっていた。ハンピでの日々は過ぎていった…..。

 ハンピの次に行く場所として、最初は北に位置するエローラ、アジャンター石窟寺院を考えていた。ハンピと並んで出会った多くのバックパッカーに勧められた場所であったし、ここからだと割と近い。そこからムンバイなども近かった。

 しかし、5月も後半になったインドには雨期が近づいていた。インドを始めとする南アジアは6月から本格的な雨期になり、泣く子も黙るモンスーンが田畑を潤す時期なのだ。そして僕には、インドを旅した後にネパールでヒマラヤを見るという予定があった。しかし雨期に入ってしまうとあの美しい山脈は見られなくなってしまう。年によっては5月の後半から雨期の始まる年もあるそうで、うかうかしていると好機を逃してしまう。僕は一度インドを出てネパールに行くことを考え始めた。残りのインド旅はヒマラヤの後にすればいい。しかしそれは何もヒマラヤだけが理由では無かった。率直に言うと、僕はインドを離れたくなっていたのだ。先に書いたように、僕は毎日のように出会う貧しさから逃げたくなっていた。地元の人々のように生活しようと息巻いていたのにも関わらず、早々に根を上げていたのだった。情けない話であるが、僕は完全にインドに負けていた。

 駅へ行き、ニューデリー行きの寝台列車を買った。明日の夜にハンピを出て次の日の朝10時にニューデリーに到着する列車だ。ニューデリーから先は何を使うか決めていないが、とにかくネパールのある北を目指すことにした。そうするとその夜から食あたりで下痢になってしまった。下宿のベッドに横になり、どこまでも負けっぱなしだなと天井を見つめながら1人笑った。どうやらインドからケツをまくられているようだ。観光客は前へ進まなくてはならない。

 次の日の夜楽しかったハンピと別れ、まだグルグル言い続けている腹をさすりながら列車に飛び乗った。まずは乗り換えの駅までの2時間ほどの旅だ。

 僕の向かいの席には孫とおじいさんの2人組がいた。おじいさんはかなり高齢のようで、杖を持つ手もおぼつかない。そんなおじいさんを支えるようにして寄り添う少年は年の頃13~14ほどで、アジア人の僕が物珍しいのかしげしげとこちらを見てくる。こちらから声をかけると、おずおずと喋り始めた。 

 どうやら少年とおじいさんは親戚の家へ行く途中のようだ。彼は父親を亡くしていて、だから彼がおじいさんの付き添いをしているらしい。何とも純朴そうな少年で、いろいろと話をしていく中でガールフレンドはいるかと尋ねると、顔を赤らめながら首を横に振っていた。 

 そうこうしているうちに周りの乗客達が食べ物を取り出し、夕食を食べ始めた。そういえば夕飯を買うのを忘れてしまった。忘れたも何も、ハンピの駅は小さすぎて、駅の購買など無かったから仕方ないのだが。

 窓の外を眺めながらやり過ごそうとしていると、おじいさんが声をかけてきた。見ると自分達の夕食を指差し、君も食べるかとジェスチャーしている。僕は感動のあまり、つい日本語で「ありがとう…!」と言ってしまった。インドに疲れていた僕にとって、それは久しぶりの感覚だったからだ。

 夕食は自家製のチャパティとカレー風味の炒め物だった。店のほど濃くなく、優しい味のそれは僕の胃袋と心を満たした。向かいの少年を見ると、彼もこちらを見て微笑んでいた。

 乗り継ぎの駅で3時間ほど時間を過ごし、ニューデリー行きの寝台列車に乗り込んだのは深夜も1時を過ぎていた。暗闇の中でやっとのこと自分の席を見つけると、そこでは男がいびきをかきながらグーグー寝ていた。

 場所を間違えたのかと思いチケットを何回確認してみても、やはりこの席で間違いない。どういうことかとうろたえていると、隣の席で寝ていた欧米人が僕に気づき、僕の席で寝ているインド人の男を起こしてくれた。起こされたインド人は何事も無かったかのように席から降りると、どこかへ行ってしまった。僕は欧米人の彼に礼を言い、寝床へ滑り込んだ。

 インドの列車はユニークだ。寝台列車にはいくつかのクラスがあり、僕が選んだ3等はその中で一番下のクラスなのだが、列車内にはそれらのチケットを持っている人の他に大勢の人々が乗車している。もちろん、無賃乗車の人々だ。彼らはチケットを持っている人が来るまで、平然とその席へ居座る。そして席の主が来ると、何食わぬ顔で別の場所へ移動する。3等の寝台列車は夜になるとベッド式になるが、日中は向かい合わせの席で運行する。そして日中はその横掛けの席にチケットを持たない人々が次々と来て座っていく。お年寄りが来た場合はチケットを持っているこちらが席を譲らなくてはならない場合もあるくらいだ。しかしだからと言ってチケットの有る無しを議論にする人は1人もいないし、みな当然のこととして座席を共有している。そしてその慣習に漏れず、あのインド人の男も僕が現れるまで快適な眠りを楽しんでいたのだ。ちなみに夜中に席を追い払われた彼らはどこへ向かうのか。それはデッキの床で、大勢の人々が折り重なるようにしてトイレの前などで寝ている光景は、壮観である。

 次の日周りの人々の動く音で目が覚めると、列車はインドの大平原のただ中を突っ走っていた。席を元に戻すと昨日の彼が向かいに座っていた。

 彼は同じく欧米人の女性と一緒に座っていた。イタリアから来たようだ。挨拶を交わし、車内販売のボーイからチャイを買うと窓の外を流れる景色に目をやった。どこまでも続く赤茶けた大地がそこにはあった。今日の朝10時にはニューデリーに着く予定であるのに、まだかなり田舎だった。やはりニューデリー付近だけが都会で、そのすぐ外はずっと田舎なのかと思いながら、ぼんやりと変らない景色を眺め続けた。

 しかし列車は待てども待てどもニューデリーに着かなかった。さすがにインド時間とはいえ、12時になっても相変わらず赤茶けた大地は遅過ぎるだろうと、しびれを切らしてイタリア人の彼に尋ねてみた。

「この列車って今日の朝10時着だよね?」

「ん、今日?いや、明日の10時だよ。チケットを見てごらん。」

 まさかと恐る恐るチケットを確認すると、そこには彼の言う通りしっかりと明日の日付が記されていた。そう、僕は到着を丸一日勘違いしていたらしい。確かにニューデリー行きにしては到着が早いなとは思っていたが。ということは後一日、この堅い座席の列車で過ごさなくてはならないのか。一気に遠のく意識を必死で呼び戻しつつ、僕は外の大地を恨めしげに睨んだ。

 しかし、結果としてこの列車での2日間はインド旅で最も思い出に残るものとなった。この列車はまさにインドの全てを詰め込んだようなものだったのだ。

 落胆した気持ちを堪えつつ、イタリア人カップルと話し始めた。彼らはニューデリーに着いた後、更に北のリシュケシュに向かう予定らしい。そこはビートルズが瞑想をしたことでも有名なヨガの聖地だ。何でも2人はサイババに強い影響を受けているらしく、彼の教えを勉強しに向かっている最中らしい。サイババという人物をみなさんは御存知だろうか。インドで様々な奇跡を起こしたとされる霊能力者のような人で、日本でも1990年代に彼に関する本が出版されるなどして大きな話題になった。彼らはサイババヒンドゥーの教えに共鳴し、それを実践するためにインドを旅しているのだそうだ。しかし君たちはキリスト教徒では無いのかと尋ねると、昔はもちろんそうだったがキリスト教の偽善的な教えが信じられなくなり、インドの教えに傾倒したのだと言っていた。西洋的な価値観や宗教観に違和感を覚えインドを旅している欧米人は多そうだが、インドでよく見るヒッピー風の気怠げな欧米人とは違って、彼らはしっかりとした哲学を持っているようだった。そしてそういう自分は一体何を信じて生きているのだろうかと、ふと立ち止まってみたが答えは全く出なかった。

 列車はインドの大地を悠々と進んでいた。僕らの席には様々なインド人がやって来た。ニューデリーヒンドゥー教の大会に参加するという青年や、チャパティをお裾分けしてくれた男性2人組。インド軍の兵士の方達もいた。そんな彼らと様々な話をしながら時を過ごした。

 そしてインドの列車の面白いところは車内販売を始めとして、多種多様な人々が列車内をいったりきたりしていることだ。チャイやコーヒー、軽食の類いから、子ども向けのおもちゃや時計、果ては何に使うかさっぱり分からないガラクタを売っているものまで、多くの売り子が陽気な声を上げながら歩いている。そして彼らの列に混じって乞食が物乞いにやってくる。ただの貧しいものから身体に障害を持つ息子をおぶった親子連れまで様々だ。更にはサリーを身に纏った聖職者のような人達まで施しを求めてやってくる。そして極めつけは、インドのオカマが腰をくねらせながらこちらに抱きついてきた。このように、色とりどりの人々がまるで人間大博覧会というように僕らの前を通り過ぎていった。チャパティを分けてくれるような優しいインド人から、僕とイタリア人カップルに対して何故か猛烈に怒っている乞食まで、清も貧も老いも若きも全てがそこにあった。インドがそこにはあった。隣の席の老人達がインド民謡を合唱し始めた。喧噪と狂騒のニューデリー•エクスプレスの旅は続くのだった。

 次の日、目を覚ますともう赤茶けた大地では無かった。小さな村々や橋の下を窓に映しながら列車は進んでいた。言うまでもないことだが、多くのスラム街や貧民があった。たまにその中の子どもと目が合った。彼らはまっすぐに僕を見つめていた。今までならすぐ目を逸らしていたろうが、その時僕はじっと彼らを見返していた。そして、ネパールに行った後にインドへは戻らないことに決めた。

 エローラやアジャンターのみならず、インド行きを決めた当初の目的だったタージ•マハルやガンジスの沐浴もまだ見ていない。なのに何故インドを訪れないことに決めたのか。それは確かにインドに疲れていたせいもあっただろう。しかしそれ以上に、これまで様々なインド人と出会い、たくさんの貧しさを見てきた僕には、タージ•マハルもガンジスの沐浴も大事なことには思えなくなっていたのだ。当初はガンジスで沐浴をする地元の人々を写真に収めようと思っていた。そして神秘的な写真が撮れればいいなどと思っていた。しかし、それは何か間違った行動のように思えてきたのだった。ガンジスに行かずとも、これまでたくさんの人々の暮らしを見てきた。それでいいではないかと思ったのだ。何もガンジスで沐浴する人々が特別なわけでは無いからだ。そして、このタイミングがインドを去る時であると感じていた。観光名所の数々にはまた今度行けばいい。ただ今は行く時では無いと感じたのだ。僕はインドに負けたのだった。

 そしてこのインド旅を経て、僕の旅のスタイルは大きく変った。無理に地元の人々と同じものを目指そうとせず、海外から来た一介の観光者=ストレンジャーとして、その国の生活や文化を外側から観察することに決めたのだ。この心境の変化を与えてくれたことに、僕はインドに大いに感謝している。

 その日、列車は無事にニューデリー駅に着いた。イタリア人カップルとお互いの旅の幸運を願いながら分かれた。僕らに憤っていた乞食はまだ駅のホームで暴れていて、周りのインド人達に制されていた。その日のうちにニューデリーカトマンズ行きの飛行機を取ると、ニューデリーの空はオレンジ色に染まっていた。この街も他と変らず、どこまでもインドだった。騒がしい客引きと、乞食と、タリーの匂い。

 インドの最後の晩餐にはタリーを食べた。ミールスに近いカレー定食だ。ネパールでも素手で食べるのだろうかと考えながら、夢中でかき込むと会計に向かった。差し出したインドルピーには、微笑むガンジーがいた。しかしそのガンジーはどうもこっちに向かってニヤッと笑っているようだった。

「おまえは若いし弱かったってことだな。まあ次まで待っといてやるよ!」

Long Transit In Southern Lights

 車窓から差し込む陽の光で目が覚めた。体を起こし薄いカーテンを開くと、その向こうにはどこまでも続く田園風景が見え、眼下を掠めるヤシの木のような熱帯樹林が南の地に来たことを知らせていた。まだ始まったばかりの朝を纏った寝台列車は、そしてさらに南へと急いでいた。旅が始まって6日目、インドへ行くはずの僕は列車に揺られマレーシアへと向かっていた。 

 前回の文章で旅に出る決意表明のようなものを書いたが、そもそもの旅の説明を記すのを忘れていた。事情を知らない人からすれば、こいつは今から何をしようとしているのか、とよく分からなかったと思う。遅ればせながら、ここで記したい。

 僕は現在大学を休学し、旅をしている。インドから出発しネパール、モロッコ、ヨーロッパ、南米、中米、北米と巡る旅だ。しかしこの予定は暫定的なもので、かなり流動的になると思われる。何しろどこに行かなくてはいけないということは無いし、各地に滞在する期間も時期も一切決まっていないからだ。であるので、一言で表すならば気ままな放浪の旅だ。そしてその“気ままさ”は、旅の冒頭から見事に発揮されたのだった。

 インドが出発地と書いたが、インドに行く前にしなくてはならないことがあった。バンコクへ行き、日本で受けられなかった予防接種を打ってもらうのだ。バンコクに着くと2~3日のうちに接種を済ませ、すぐインドへと飛ぶ予定になっていた。しかし、とある事情でインド行きの航空券をキャンセルしなくてはならない事態となった。バンコクに着いて4時間、期せずして僕は完全に自由の身となったのだった。すぐにインド行きの航空券を取り直しても良かったが、せっかくのこの状況を楽しまない手は無い。僕は特に期間を設けずに、バンコクに滞在することにした。

 バンコクへやって来た僕を迎え入れてくれたのは、灼けるような暑さだった。日本のそれとは質の違う熱気が歩道を満たし、数歩前に進むだけで滝のような汗が流れ落ちるという殺人的な暑さだ。後で知ったことにはタイで3月〜5月は暑期といい、1年で一番暑い時期のようだ。どうやら一番過ごしにくい時期に来てしまったらしい。しかし“その国の一番特徴的な時期に旅をするのが、本当の旅である”というどこかの著名な旅人の言葉を思い出し、この時期の旅も悪くないぞと自分に思い込ませながら額に滲む汗を拭った。

 バンコクを覆う熱気はしかし、それだけでは無かった。歩道を埋め尽くす屋台、街中を走り抜けるトゥクトゥクやバイク、路地裏で遊び回る子ども達、そうした街の人々の発する強烈な熱気が街を満たしていたのだ。バンコクは高層ビルの立ち並ぶ発展した地区がある一方で、そこから1つ通りを挟むと崩れかかった建物の目立つボロ屋街がある。富と貧が入り交じる街を縫うようにして生きる人々はみな前を向いていて、日々を生き抜く力で溢れていた。僕はそこにこの街の逞しさを感じた。

 

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バンコクの至る所にある屋台。こちらがカメラを向けると、モデルになろうか?と言い気さくに応じてくれたとある屋台の女将さん。

 

 バンコクについて何も調べて来なかった僕は、ゲストハウスで貰った観光客向けの簡易な地図を頼りに街を歩き始めた。しかしこの暑さだ。歩道を歩く人はまばらで、地元の人々は木陰で涼みながら午睡を楽しんでいる。僕は半ば太陽から逃げるようにして、寺院へ入った。地図で見つけたそこはワット•ポーといい、巨大な寝釈迦仏で有名なお寺だった。多くの観光客で溢れていて、どうやらバンコク市内でも有名な観光スポットのようだ。中に入るとすぐに寝釈迦仏のある礼拝堂がある。やはりこの寺院の目玉のようで、礼拝堂内には人だかりが出来ていた。

 ついに対面した寝釈迦仏は想像以上の大きさで、あまりの立派さに立ち尽くしてしまった。足の裏以外は全て黄金でコーティングされており、その雄大さは仏教がこの国で如何に尊ばれているかを物語っていた。しかし僕の心を最も強く打ったのは、その空間そのものだった。欧米人やイスラムの人々、アジア人といった様々な人種や宗教の人達が礼拝堂にいて、それぞれがみな笑顔で記念写真を取っているその光景こそ、最も素晴らしいものだった。宗教とは本来、こうあるべきではないのか。その光景を見ていると、宗教間での争いとは一体何なのだろうかと虚脱感のようなものが押し寄せてきた。ふと顔を上げると、寝釈迦が微笑みながら僕らを見ているようだった。

 

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長年のタイの歴史をずっとこの姿勢で見てきた釈迦の瞳は、慈愛のような感情で満ちていた。

 

 夕陽がチャオプラヤー川をオレンジ色に染め、街に夜が近づいてきた。まだ十分暑いが街の熱気も少しは引き、過ごしやすくなってきた。しかし街を覆っていたもう1つの熱気は弱まるどころか、更なる盛り上がりを見せるのだった。いよいよバンコクナイツが始まろうとしていた。

 僕はルンピニという地区に宿を取っていたが、そこから1駅ほどのところにナイトマーケットやショッピングセンターの集まる場所があった。そこはその一帯の中心地で、夜になると多くの人々が集まり連日賑わっていた。日本人には有名なタニヤ通りもすぐ近くにあった。様々な人種の観光客が闊歩し、昼間は暑さを避け屋内にいた地元の人々も家族や恋人と連立ってそれぞれの時間を楽しんでいる。車やバイクは排気ガスを巻き上げながら行き交い、娼婦は流暢な日本語で笑いかける。道端に目をやると、乞食が体を丸めるようにして手を差し出していた。僕は毎日のようにそこへ出向き、屋台で100円ほどの夕飯を食べながら街の様子を飽くことなくただ眺めていた。バンコクナイツがそこにはあった。それは踊っているようだった。道行く人々の笑い声、娼婦の客を誘う声、車やバイクの騒音、屋台から立ち上る湯気の音、物乞いをする乞食の呻き声。それらが渾然一体となりネオンサインに照らされた様は、まるでバンコクの街がリズムに合わせて踊っているようだった。僕はその踊りの中にただ身を任せ、夜が過ぎていくのを魅せられるように見ていた。気がつくと、バンコクに着いて5日が経とうとしていた。

 予防接種も無事済ませた僕は、そろそろインドへ発とうと思い始めていた。バンコクは楽しいが、やはりインドの地を早く見てみたい。それに毎日街を歩き、食堂で安いご飯を済ませ、夜はシンハー片手にナイトマーケットへ繰り出すという生活は金もかからず楽しかったが、このままだといつまでもダラダラと時が過ぎそうな気がしていたのだ。

 宿の荷物を整理し、ベッドに日本から持って来た世界地図を広げた。インドでの出発地であるチェンナイを眺めていると、ふとタイの下に延びる半島に目が行った。もちろんマレー半島のことだ。それを眺めていると、こんなことを思いついた。タイから列車でマレーシアへ行き、そこから飛行機でインドへ向かうのはどうだろう。せっかく東南アジアへ来たのだから1国だけで離れるのはもったいないし、陸路入国は空路に比べ審査も簡単だと聞いていた。それに、確か沢木耕太郎もタイからマレーシアに行ってからインドへ向かっていたような気がする。安く行けるのなら、マレーシアへ行くのも悪くはない。インドはその後でもいいじゃないか。

 調べてみるとマレー鉄道という列車がタイ〜マレーシア間を走っており、バンコク〜クアラルンプールを4000円から8000円ほどで行けるようだ。クアラルンプールからチェンナイへの飛行機代は10000円ほどだったので、バンコク〜チェンナイ間の航空券23000円よりも合計で安くなる。僕は半島を南下することにした。

 セントラル駅へ向いクアラルンプール行きの列車を探したが、向こう3日ほどまで全て満席だった。トボトボ歩いていると係のお姉さんが話しかけてきて、向こうにある旅行会社にならまだ席があるかもしれないと教えてくれた。満席なのに乗れるなんてことがあるのかと訝しみながら案内された場所に行くと、そこはこじんまりした旅行代理店だった。クアラルンプールに行きたい旨を伝えると、スタッフのおばさんは明日なら席があるよと言った。聞けば列車はパダンベサーという国境付近が終点らしく、そこから先は現地で列車を取ってくれとのことだった。明日の15時にバンコクを発ち、次の日の朝に到着する寝台列車だ。5000円という値段が高いような気もしたが、ここで3日も待つのは避けたかった。こうして僕はバンコクを発つことになった。 

 

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みなが思い思いのスタイルで列車を待つセントラル駅。東京でいうと東京駅のようなところだろうが、中々どうしてすごい。

 

 次の日最後のバンコク観光を済ませ駅に着くと、巨大な列車が待ち構えていた。10両を超すそれはホームの先の先まで続いており、自分の車両まで行くのにかなりの時間がかかった。寝台列車に乗るのは、日本にいた時も含めて人生で初めての経験だ。ついに憧れの深夜特急に乗車するのだ。押さえようの無い興奮が体を駆け巡った。

 列車は定刻になると、ゆっくりと動き出した。車窓は民家の裏庭や線路沿いにあるボロ屋など、バンコクの街を歩いているだけでは見られない景色を映しながら流れた。それが終るとバンコク市街が広々と見え、しかしそれはすぐに田園風景へと変るのだった。都市である部分はほんの狭く、残りの大半は農村のようだ。僕はデッキの扉に掴まりながら、どこまでも続く田畑の向こうで夜に変ろうとしている空を見つめていた。

 

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深夜特急。中はきれいで、乗客のマナーもよかった。スタッフに高い夕食を勝手に注文されたのが、唯一の苦い思い出だ。

 

 パダンベサーに着いた僕は、まず始めにタイから出国しなくてはならなかった。パダンベサーは田舎によくある長閑な駅で、ここで出国と入国の審査をしているようにはとても見えなかった。しかしパスポートを見せ簡単なチェックを受けると、いとも簡単に出国審査は終了した。そして隣の部屋に案内され、これまた流れるようなスピードでマレーシアに入国出来たのだった。これで本当に入国出来たのかと不安に思ったが、パスポートにはきちんとスタンプが押されている。タイとの最後はあっけなかった。僕は隣の部屋にいるタイに手を振り、別れを惜しんだ。

 クアラルンプールへの列車はもうかなり満席のようで、高いシートしか残っていなかった。たかだか4時間ほどにお金をかけるのは惜しかったが、この何も無い村に取り残されるのだけは避けたい。僕は泣く泣くエアコン付きの特急券を購入した。窓にもたれうつらうつらしていると、気がつけばそこにはクアラルンプールがあった。バンコクのそれとは違い立派なセントラル駅を抜けると、街が夕暮れを終えようとしていた。僕は急いで今日の宿へと向かった。

 クアラルンプールに着いたその日のうちにチェンナイ行きの飛行機を取った僕は、この街で過ごすのは3日ほどと決めた。マレーシアに来た最大の目的は深夜特急に乗ることくらいだったので、3日ばかりが妥当だろうと考えたのだ。次の日から、バンコクの時と同じように当てもなく歩き始めた。

 ここに来るまでクアラルンプールはバンコクと同じような街だろうと漠然と想像していたが、それは全くの別物だった。バンコクが迸る熱気の街だったのに対し、クアラルンプールは整然とした落ち着きのある街だった。バンコクでは横断歩道に平気で車が突っ込んで来たが、この街では歩行者が渡り終えるのをきちんと待ってくれる。またタイが仏教の国であるのに対して、マレーシアはイスラム教徒のマレー人と仏教徒華人、そしてヒンドゥー教徒のインド系が共存する国だ。街中に寺院とモスクが混在し、道行く人々の雰囲気もタイとは少し異なる。日本にいた時は東南アジアを一括りに見ていたが、地続きの隣の国でもここまで違うことが驚きだった。どちらも良い街だが、僕はバンコクの熱気を少し懐かしく感じた。あの迸る生気は見ていてとても気持ちが良かったのだ。しかしこの街がバンコクほど暑く無かったのは、とても助かった。 

 

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クアラルンプール1の繁華街。ショッピングモールが軒を連ね、東京のそれと変らない雰囲気だった。みすぼらしい格好だったので、かなり浮いてしまった。

 

 クアラルンプール最後の夜、僕は同じゲストハウスで知り合った日本人2人組と近くのバーで飲んでいた。マキさんとホシミヤさんというその2人はその日クアラルンプール近郊にあるカジノで勝利を収めたらしく、一緒に祝杯を上げようと誘ってくれたのだ。しばらくの間、僕らは勝利の美酒に酔いしれていた。

 するとそこへ、かなり酔っぱらったおじさんが近寄ってきた。トルコ人だというそのおじさんは、僕らが日本人だと分かると片言の日本語を連発しながら一緒に飲もうと誘ってきた。かなり怪しいと全員が感じていたが、彼のテンションに気圧されてしまい、結局彼と彼の友達と一緒に飲むことになってしまった。

 おじさんは最初のうちはビールを奢ると言いながら僕らに酒を勧めてきたが、次第に僕らの持ち物に興味を持ち始めた。ウエストポーチを指差しながら、それはどこで買ったのか、いくらくらいだ、とかなりしつこく尋ねてきた。そしてついにホシミヤさんのウエストポーチを取り上げると、おどけるように中身を物色し始めた。

 僕らはヒヤヒヤしながら事の成り行きを見守っていたが、おじさんは一通りバッグの中を物色すると持ち主の元へ返した。しかし、ホシミヤさんが財布の中身を確認すると案の定と言うべきか、かなりの額の紙幣がなくなっていた。おじさんの手元をずっと見ていたのに、僕らはしてやられたのだ。そして気がつくと、おじさんの友達はいつの間にかいなくなっていた。

 すぐに店員を交えての大騒動になった。店員達は旅行客である僕らの味方をしてくれ、おじさんのボディーチェックや事情聴取などを迅速に行ってくれた。しかし彼のポケットや服の中からは何も出てこなかった。おそらく友達に渡して先に帰したのだろう。店員が友達についておじさんに詰問したが、そんなやつは知らないと言い張っていた。店員曰く、おじさんはかなりヤリ手のスリ師のようだった。そして驚いたことに、おじさんはトルコ人ですら無かった。

 僕らはおじさんから何とか被害額の半分を取り返すと店員に御礼を言い、酔いと興奮を冷ますために店を出た。旅に出て初めて盗難と言おうか、金銭のトラブルに遭遇した。ホシミヤさんは、お金を取られたのは悔しいが中々出来ない経験が出来たと言っていた。確かに僕も、これから旅を続ける中で貴重な教訓を学ぶことが出来た。日本語をペラペラと話す外国人は信用してはならない、ということを。こんな事が起きたのに奢ってもらうのは申し訳なかったが、僕らが誘ったのだからと言って2人はどうしてもお金を受け取らなかった。マキさんはこの後中東を経てヨーロッパに行くらしい。また会えたらいいねと約束を交わし、僕らは別れた。バックパッカー仲間が出来たことに、僕は少し心強く感じた。

 次の日、永遠と続くヤシの木を舐めるようにして走るバスに揺られながら、僕はクアラルンプール国際空港へ向かっていた。ついにインドへ旅立つのだ。当初はバンコクに到着してすぐ向かう予定であったのに、長い長いトランジットになってしまった。しかしおかげで、バックパッキングのおおよその感覚と暑さへの免疫が身に付いた。インドへの助走は十分といったところか。そして何より、東南アジアでの日々は良かった。南の光に包まれながら見た狂騒の日々を、僕は忘れないだろう。

 インドはどんなところだろう。フライトが明日の早朝のため、深夜のターミナルの地べたに座りながら考えていた。しかし全く想像がつかなかった。本や映画ではいくつか触れたことのあるインドだが、それ以外の知識はほとんど無いに等しい。しかしそれでいい気がした。事前の知識や先入観は出来るだけ排除して、ありのままのインドを見てみたい。そしてインドはもうすぐそこなのだ。そう独りごちると、僕はバックパックを枕にして横になった。深夜のターミナルは、次の地へ向かう人々の期待と不安が睡りの中でも眠らずに点在する素敵な空間だ。僕は自分もその一員になっていることを嬉しく思いながら、軽く瞳を閉じた。そして夢の中には、もうインドがあった。

放蕩息子の漂流

  旅に出ようと思ったその一点を指摘するのは難しいが、動機になったものが何かははっきりと分かる。高校の頃、父の書斎から抜き出した『深夜特急』だ。香港からロンドンまでのその広大な旅は、世界の美しさと醜さ、人間の逞しさと弱さを映し出していた。片田舎で暮らしていた僕は、いつかこの目でその広大な世界を見たいと強く思った。今思うと『深夜特急』を手に取ったあの時から、この旅は始まっていたのだ。

  スーツ姿の同期たちがキャンパスを歩く1月、彼らとは真逆の道を進みながらぼくは大学に休学届けを提出した。住み慣れた四畳半は何も無くなり、僕の傍には小さなバックパックが1つ残っただけだ。旅はもうそこまできている。

  この旅を始めるにあたって、多くの人に見送ってもらった。サークルのみんな。大学の友達。地元の友人。バイト先の人達。みんなに感謝を言いたい。旅がしたいという道楽にしか聞こえない理由にも休学許可を出してくれた大学の方達にも感謝したい。そして最後に、この放蕩息子の我儘を許してくれ、笑って見送ってくれた両親に感謝したい。人前で身内に感謝するのは恥ずべき事だが、ここでは許してほしい。

  この旅がどうなるか、今は全く分からない。行ってみて、世界は大したことなかったと思うかもしれない。しかしそれならばそれでいい。どうであろうと、この目で見てみたい。インターネットを通してでは無く、自分自身を通して世界を感じたい。そのために僕は旅をする、とここで宣言しよう。これが、放浪紀行宣言だ。

  放蕩息子の漂流が始まろうとしている。明日はどんな世界が待っているのか。寝ている時も、僕の目は常に起きている。さあ、出発の鐘が鳴っている。