Long Transit In Southern Lights

 車窓から差し込む陽の光で目が覚めた。体を起こし薄いカーテンを開くと、その向こうにはどこまでも続く田園風景が見え、眼下を掠めるヤシの木のような熱帯樹林が南の地に来たことを知らせていた。まだ始まったばかりの朝を纏った寝台列車は、そしてさらに南へと急いでいた。旅が始まって6日目、インドへ行くはずの僕は列車に揺られマレーシアへと向かっていた。 

 前回の文章で旅に出る決意表明のようなものを書いたが、そもそもの旅の説明を記すのを忘れていた。事情を知らない人からすれば、こいつは今から何をしようとしているのか、とよく分からなかったと思う。遅ればせながら、ここで記したい。

 僕は現在大学を休学し、旅をしている。インドから出発しネパール、モロッコ、ヨーロッパ、南米、中米、北米と巡る旅だ。しかしこの予定は暫定的なもので、かなり流動的になると思われる。何しろどこに行かなくてはいけないということは無いし、各地に滞在する期間も時期も一切決まっていないからだ。であるので、一言で表すならば気ままな放浪の旅だ。そしてその“気ままさ”は、旅の冒頭から見事に発揮されたのだった。

 インドが出発地と書いたが、インドに行く前にしなくてはならないことがあった。バンコクへ行き、日本で受けられなかった予防接種を打ってもらうのだ。バンコクに着くと2~3日のうちに接種を済ませ、すぐインドへと飛ぶ予定になっていた。しかし、とある事情でインド行きの航空券をキャンセルしなくてはならない事態となった。バンコクに着いて4時間、期せずして僕は完全に自由の身となったのだった。すぐにインド行きの航空券を取り直しても良かったが、せっかくのこの状況を楽しまない手は無い。僕は特に期間を設けずに、バンコクに滞在することにした。

 バンコクへやって来た僕を迎え入れてくれたのは、灼けるような暑さだった。日本のそれとは質の違う熱気が歩道を満たし、数歩前に進むだけで滝のような汗が流れ落ちるという殺人的な暑さだ。後で知ったことにはタイで3月〜5月は暑期といい、1年で一番暑い時期のようだ。どうやら一番過ごしにくい時期に来てしまったらしい。しかし“その国の一番特徴的な時期に旅をするのが、本当の旅である”というどこかの著名な旅人の言葉を思い出し、この時期の旅も悪くないぞと自分に思い込ませながら額に滲む汗を拭った。

 バンコクを覆う熱気はしかし、それだけでは無かった。歩道を埋め尽くす屋台、街中を走り抜けるトゥクトゥクやバイク、路地裏で遊び回る子ども達、そうした街の人々の発する強烈な熱気が街を満たしていたのだ。バンコクは高層ビルの立ち並ぶ発展した地区がある一方で、そこから1つ通りを挟むと崩れかかった建物の目立つボロ屋街がある。富と貧が入り交じる街を縫うようにして生きる人々はみな前を向いていて、日々を生き抜く力で溢れていた。僕はそこにこの街の逞しさを感じた。

 

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バンコクの至る所にある屋台。こちらがカメラを向けると、モデルになろうか?と言い気さくに応じてくれたとある屋台の女将さん。

 

 バンコクについて何も調べて来なかった僕は、ゲストハウスで貰った観光客向けの簡易な地図を頼りに街を歩き始めた。しかしこの暑さだ。歩道を歩く人はまばらで、地元の人々は木陰で涼みながら午睡を楽しんでいる。僕は半ば太陽から逃げるようにして、寺院へ入った。地図で見つけたそこはワット•ポーといい、巨大な寝釈迦仏で有名なお寺だった。多くの観光客で溢れていて、どうやらバンコク市内でも有名な観光スポットのようだ。中に入るとすぐに寝釈迦仏のある礼拝堂がある。やはりこの寺院の目玉のようで、礼拝堂内には人だかりが出来ていた。

 ついに対面した寝釈迦仏は想像以上の大きさで、あまりの立派さに立ち尽くしてしまった。足の裏以外は全て黄金でコーティングされており、その雄大さは仏教がこの国で如何に尊ばれているかを物語っていた。しかし僕の心を最も強く打ったのは、その空間そのものだった。欧米人やイスラムの人々、アジア人といった様々な人種や宗教の人達が礼拝堂にいて、それぞれがみな笑顔で記念写真を取っているその光景こそ、最も素晴らしいものだった。宗教とは本来、こうあるべきではないのか。その光景を見ていると、宗教間での争いとは一体何なのだろうかと虚脱感のようなものが押し寄せてきた。ふと顔を上げると、寝釈迦が微笑みながら僕らを見ているようだった。

 

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長年のタイの歴史をずっとこの姿勢で見てきた釈迦の瞳は、慈愛のような感情で満ちていた。

 

 夕陽がチャオプラヤー川をオレンジ色に染め、街に夜が近づいてきた。まだ十分暑いが街の熱気も少しは引き、過ごしやすくなってきた。しかし街を覆っていたもう1つの熱気は弱まるどころか、更なる盛り上がりを見せるのだった。いよいよバンコクナイツが始まろうとしていた。

 僕はルンピニという地区に宿を取っていたが、そこから1駅ほどのところにナイトマーケットやショッピングセンターの集まる場所があった。そこはその一帯の中心地で、夜になると多くの人々が集まり連日賑わっていた。日本人には有名なタニヤ通りもすぐ近くにあった。様々な人種の観光客が闊歩し、昼間は暑さを避け屋内にいた地元の人々も家族や恋人と連立ってそれぞれの時間を楽しんでいる。車やバイクは排気ガスを巻き上げながら行き交い、娼婦は流暢な日本語で笑いかける。道端に目をやると、乞食が体を丸めるようにして手を差し出していた。僕は毎日のようにそこへ出向き、屋台で100円ほどの夕飯を食べながら街の様子を飽くことなくただ眺めていた。バンコクナイツがそこにはあった。それは踊っているようだった。道行く人々の笑い声、娼婦の客を誘う声、車やバイクの騒音、屋台から立ち上る湯気の音、物乞いをする乞食の呻き声。それらが渾然一体となりネオンサインに照らされた様は、まるでバンコクの街がリズムに合わせて踊っているようだった。僕はその踊りの中にただ身を任せ、夜が過ぎていくのを魅せられるように見ていた。気がつくと、バンコクに着いて5日が経とうとしていた。

 予防接種も無事済ませた僕は、そろそろインドへ発とうと思い始めていた。バンコクは楽しいが、やはりインドの地を早く見てみたい。それに毎日街を歩き、食堂で安いご飯を済ませ、夜はシンハー片手にナイトマーケットへ繰り出すという生活は金もかからず楽しかったが、このままだといつまでもダラダラと時が過ぎそうな気がしていたのだ。

 宿の荷物を整理し、ベッドに日本から持って来た世界地図を広げた。インドでの出発地であるチェンナイを眺めていると、ふとタイの下に延びる半島に目が行った。もちろんマレー半島のことだ。それを眺めていると、こんなことを思いついた。タイから列車でマレーシアへ行き、そこから飛行機でインドへ向かうのはどうだろう。せっかく東南アジアへ来たのだから1国だけで離れるのはもったいないし、陸路入国は空路に比べ審査も簡単だと聞いていた。それに、確か沢木耕太郎もタイからマレーシアに行ってからインドへ向かっていたような気がする。安く行けるのなら、マレーシアへ行くのも悪くはない。インドはその後でもいいじゃないか。

 調べてみるとマレー鉄道という列車がタイ〜マレーシア間を走っており、バンコク〜クアラルンプールを4000円から8000円ほどで行けるようだ。クアラルンプールからチェンナイへの飛行機代は10000円ほどだったので、バンコク〜チェンナイ間の航空券23000円よりも合計で安くなる。僕は半島を南下することにした。

 セントラル駅へ向いクアラルンプール行きの列車を探したが、向こう3日ほどまで全て満席だった。トボトボ歩いていると係のお姉さんが話しかけてきて、向こうにある旅行会社にならまだ席があるかもしれないと教えてくれた。満席なのに乗れるなんてことがあるのかと訝しみながら案内された場所に行くと、そこはこじんまりした旅行代理店だった。クアラルンプールに行きたい旨を伝えると、スタッフのおばさんは明日なら席があるよと言った。聞けば列車はパダンベサーという国境付近が終点らしく、そこから先は現地で列車を取ってくれとのことだった。明日の15時にバンコクを発ち、次の日の朝に到着する寝台列車だ。5000円という値段が高いような気もしたが、ここで3日も待つのは避けたかった。こうして僕はバンコクを発つことになった。 

 

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みなが思い思いのスタイルで列車を待つセントラル駅。東京でいうと東京駅のようなところだろうが、中々どうしてすごい。

 

 次の日最後のバンコク観光を済ませ駅に着くと、巨大な列車が待ち構えていた。10両を超すそれはホームの先の先まで続いており、自分の車両まで行くのにかなりの時間がかかった。寝台列車に乗るのは、日本にいた時も含めて人生で初めての経験だ。ついに憧れの深夜特急に乗車するのだ。押さえようの無い興奮が体を駆け巡った。

 列車は定刻になると、ゆっくりと動き出した。車窓は民家の裏庭や線路沿いにあるボロ屋など、バンコクの街を歩いているだけでは見られない景色を映しながら流れた。それが終るとバンコク市街が広々と見え、しかしそれはすぐに田園風景へと変るのだった。都市である部分はほんの狭く、残りの大半は農村のようだ。僕はデッキの扉に掴まりながら、どこまでも続く田畑の向こうで夜に変ろうとしている空を見つめていた。

 

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深夜特急。中はきれいで、乗客のマナーもよかった。スタッフに高い夕食を勝手に注文されたのが、唯一の苦い思い出だ。

 

 パダンベサーに着いた僕は、まず始めにタイから出国しなくてはならなかった。パダンベサーは田舎によくある長閑な駅で、ここで出国と入国の審査をしているようにはとても見えなかった。しかしパスポートを見せ簡単なチェックを受けると、いとも簡単に出国審査は終了した。そして隣の部屋に案内され、これまた流れるようなスピードでマレーシアに入国出来たのだった。これで本当に入国出来たのかと不安に思ったが、パスポートにはきちんとスタンプが押されている。タイとの最後はあっけなかった。僕は隣の部屋にいるタイに手を振り、別れを惜しんだ。

 クアラルンプールへの列車はもうかなり満席のようで、高いシートしか残っていなかった。たかだか4時間ほどにお金をかけるのは惜しかったが、この何も無い村に取り残されるのだけは避けたい。僕は泣く泣くエアコン付きの特急券を購入した。窓にもたれうつらうつらしていると、気がつけばそこにはクアラルンプールがあった。バンコクのそれとは違い立派なセントラル駅を抜けると、街が夕暮れを終えようとしていた。僕は急いで今日の宿へと向かった。

 クアラルンプールに着いたその日のうちにチェンナイ行きの飛行機を取った僕は、この街で過ごすのは3日ほどと決めた。マレーシアに来た最大の目的は深夜特急に乗ることくらいだったので、3日ばかりが妥当だろうと考えたのだ。次の日から、バンコクの時と同じように当てもなく歩き始めた。

 ここに来るまでクアラルンプールはバンコクと同じような街だろうと漠然と想像していたが、それは全くの別物だった。バンコクが迸る熱気の街だったのに対し、クアラルンプールは整然とした落ち着きのある街だった。バンコクでは横断歩道に平気で車が突っ込んで来たが、この街では歩行者が渡り終えるのをきちんと待ってくれる。またタイが仏教の国であるのに対して、マレーシアはイスラム教徒のマレー人と仏教徒華人、そしてヒンドゥー教徒のインド系が共存する国だ。街中に寺院とモスクが混在し、道行く人々の雰囲気もタイとは少し異なる。日本にいた時は東南アジアを一括りに見ていたが、地続きの隣の国でもここまで違うことが驚きだった。どちらも良い街だが、僕はバンコクの熱気を少し懐かしく感じた。あの迸る生気は見ていてとても気持ちが良かったのだ。しかしこの街がバンコクほど暑く無かったのは、とても助かった。 

 

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クアラルンプール1の繁華街。ショッピングモールが軒を連ね、東京のそれと変らない雰囲気だった。みすぼらしい格好だったので、かなり浮いてしまった。

 

 クアラルンプール最後の夜、僕は同じゲストハウスで知り合った日本人2人組と近くのバーで飲んでいた。マキさんとホシミヤさんというその2人はその日クアラルンプール近郊にあるカジノで勝利を収めたらしく、一緒に祝杯を上げようと誘ってくれたのだ。しばらくの間、僕らは勝利の美酒に酔いしれていた。

 するとそこへ、かなり酔っぱらったおじさんが近寄ってきた。トルコ人だというそのおじさんは、僕らが日本人だと分かると片言の日本語を連発しながら一緒に飲もうと誘ってきた。かなり怪しいと全員が感じていたが、彼のテンションに気圧されてしまい、結局彼と彼の友達と一緒に飲むことになってしまった。

 おじさんは最初のうちはビールを奢ると言いながら僕らに酒を勧めてきたが、次第に僕らの持ち物に興味を持ち始めた。ウエストポーチを指差しながら、それはどこで買ったのか、いくらくらいだ、とかなりしつこく尋ねてきた。そしてついにホシミヤさんのウエストポーチを取り上げると、おどけるように中身を物色し始めた。

 僕らはヒヤヒヤしながら事の成り行きを見守っていたが、おじさんは一通りバッグの中を物色すると持ち主の元へ返した。しかし、ホシミヤさんが財布の中身を確認すると案の定と言うべきか、かなりの額の紙幣がなくなっていた。おじさんの手元をずっと見ていたのに、僕らはしてやられたのだ。そして気がつくと、おじさんの友達はいつの間にかいなくなっていた。

 すぐに店員を交えての大騒動になった。店員達は旅行客である僕らの味方をしてくれ、おじさんのボディーチェックや事情聴取などを迅速に行ってくれた。しかし彼のポケットや服の中からは何も出てこなかった。おそらく友達に渡して先に帰したのだろう。店員が友達についておじさんに詰問したが、そんなやつは知らないと言い張っていた。店員曰く、おじさんはかなりヤリ手のスリ師のようだった。そして驚いたことに、おじさんはトルコ人ですら無かった。

 僕らはおじさんから何とか被害額の半分を取り返すと店員に御礼を言い、酔いと興奮を冷ますために店を出た。旅に出て初めて盗難と言おうか、金銭のトラブルに遭遇した。ホシミヤさんは、お金を取られたのは悔しいが中々出来ない経験が出来たと言っていた。確かに僕も、これから旅を続ける中で貴重な教訓を学ぶことが出来た。日本語をペラペラと話す外国人は信用してはならない、ということを。こんな事が起きたのに奢ってもらうのは申し訳なかったが、僕らが誘ったのだからと言って2人はどうしてもお金を受け取らなかった。マキさんはこの後中東を経てヨーロッパに行くらしい。また会えたらいいねと約束を交わし、僕らは別れた。バックパッカー仲間が出来たことに、僕は少し心強く感じた。

 次の日、永遠と続くヤシの木を舐めるようにして走るバスに揺られながら、僕はクアラルンプール国際空港へ向かっていた。ついにインドへ旅立つのだ。当初はバンコクに到着してすぐ向かう予定であったのに、長い長いトランジットになってしまった。しかしおかげで、バックパッキングのおおよその感覚と暑さへの免疫が身に付いた。インドへの助走は十分といったところか。そして何より、東南アジアでの日々は良かった。南の光に包まれながら見た狂騒の日々を、僕は忘れないだろう。

 インドはどんなところだろう。フライトが明日の早朝のため、深夜のターミナルの地べたに座りながら考えていた。しかし全く想像がつかなかった。本や映画ではいくつか触れたことのあるインドだが、それ以外の知識はほとんど無いに等しい。しかしそれでいい気がした。事前の知識や先入観は出来るだけ排除して、ありのままのインドを見てみたい。そしてインドはもうすぐそこなのだ。そう独りごちると、僕はバックパックを枕にして横になった。深夜のターミナルは、次の地へ向かう人々の期待と不安が睡りの中でも眠らずに点在する素敵な空間だ。僕は自分もその一員になっていることを嬉しく思いながら、軽く瞳を閉じた。そして夢の中には、もうインドがあった。