夜行列車と乞食たち

 率直に言うと、僕はインドに負けた。かの昔、藤原新也は『印度放浪』でこう記している。

“青年は何かに負けているようであった。多分青年は太陽に負けていた。そして、青年は大地に負けていた。青年は人に負け、熱に負けていた。青年は牛に負け、羊に負け、犬や虫に負けていた。青年は汚物に負け、花に負けていた。青年はパンに負け、水に負けていた。青年は乞食に負け、女に負け、神に負けていた。青年は匂いに負け、音に負け、そして時間に負けていた。青年は、自分を包み込むありとあらゆるものに負けていた。”

 まさか藤原氏と自分を並べるほど野暮では無いが、僕は彼のこの言葉の意味がよく分かる。いや、正確には分かるようになったのだ。インドを旅して、僕も自分を包み込む全てのものに負けたようだ。インドは全てを覆し、淘汰し、そして超然とそこにあった。僕の存在など、ダールの中に入った一粒の豆のようなものだった。

 マレーシアからチェンナイに着いたのは、朝の9時過ぎだった。郊外にある空港で入国審査を済ませ外に出ると、出口の前にはフェンスに乗り出さんばかりの大勢の人々がいた。出迎えにしてはやけに人がたくさんいるなと不思議に思っていると、彼らは僕の姿を見るなり一斉に大声で叫び始めた。

「ハロー、マイフレンド!タクシー!!」

 そう、彼らは全てタクシードライバーだったのだ。正確には三輪バイクのリクシャードライバーだ。飛行機の到着を心待ちにしていたようで、みな目を輝かせながら声を張り上げている。僕は列車を使って市内に移動するつもりだったのでリクシャーは必要無かったが、駅は空港から少し離れたところにあった。それはつまり、このドライバーの大群の中をかき分けて進まねばならないということだった。

 一歩前に進むたびに大勢のドライバー達が押し寄せてきた。きついインド訛りの英語を早口で喋りながら、次から次へと話しかけてくる。それはさながら新歓期のキャンパスのようだった。どうやら早くもインドの洗礼を受けているようだ。僕は苦笑いとジェスチャーでどうにか彼らを振り切り、駅へと急いだ。ホームに着く頃には、既に玉のような汗をかいていた。しかし、洗礼はこれでは終らない。

 車輪を軋ませながらやってきた列車には、当然のように扉が無かった。そして満員の車内からはみ出した人々はその扉の無い出入り口にしがみついて乗車していた。話には聞いていたインドを象徴する光景だが、ここまで日常の風景としてやってこられると感動を通り越して唖然としてしまう。そして車内には溢れんばかりのインド人がいた。黒い肌、パーマがかった短髪、そしてギョロっと飛び出た眼。まさにインド人としか形容しようの無い人々が一斉にこちらを見てきた。東南アジアの国々は色々な人種の人々が混在していたが、そこには見事にインド人しかいなかった。そして僕が唯一の異邦人のようだ。車内に乗り込んだ僕は大勢の乗客にジロジロ見られながら目的地を目指した。彼らは声もかけず微笑みもせず、ただ真顔でボーっと僕を見つめていた。こうしてインドでの日々が始まったのだ。

 例に漏れず、インドでの計画も特に決めていなかった。見たいものはタージ•マハルとガンジスの沐浴くらいで、他の知識はほぼ無かった。しかし、上記の2つは共に北インドにある。しかし今いるチェンナイは南インドだ。何故わざわざ反対側の南インドに来たのか。これにはある理由があった。

 インドに行こうと思い立った当初は、ニューデリーコルカタといった北インドから入ろうと思っていた。しかし旅に出る直前にある雑誌を読んでいると、南インドの方が北よりも人が穏やかで治安も良いと書いていた。気になって他の本を当たってみると、やはり南インドの方が旅をしやすいと言っていた。インドは盗難や詐欺が多く初めての人は大変だという話は聞いていたので、ここは南インドから出発してある程度慣れてから北に行こうと考えたのだ。こうしてチェンナイに辿り着いた次第だ。

 宿を取り荷物を置くと、さっそくチェンナイの街へと繰り出した。チェンナイはインド第四の都市で、国内ではかなりの都会に入るはずだ。しかし街は古びた建物が砂埃に抱かれながら立ち並び、道路は至る所が破損しておりそのままになっている。言い方は悪いが、戦後の闇市のような雑多な街で、来る前に聞いていたITと映画の街にはとても見えなかった。車とバイクとリクシャーがけたたましいクラクションを鳴らしながら我先にと行き交い、歩道には溢れんばかりの人、人、人……。

 しかし何よりも驚きを持って僕の眼に飛び込んできたもの、それは牛だった。インドはヒンドゥー教の国であるので牛が街中を平然と歩いているという、何回聞いたか分からないこの有名な話は当然知っていたが、しかしその光景を事実として現前に迎えるとやはり圧倒的なものがあった。牛は道路の真ん中を悠然と歩き、人々はまるでそれが猫かなにかのように平然と隣を歩いていた。車やバイクは牛が渡り終えるまでずっと待っているので、牛の後ろには長々と大渋滞が出来ていた。しかし牛はそんなこと一切気にすることなく、時折間延びした鳴き声を上げながらインドの大地を行くのだった。

 

 

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こちらは牛車を引く牛さん。インドの街にはいたる所に牛の糞が落ちていて、これが中々強烈な臭い。しかし、牛さんはそんなこと歯牙にもかけない。
 

 チェンナイの街にはどうも特に観光名所は無さそうだった。海外から来る者は単に空の玄関口として利用するようだ。仕方が無いので、イギリス植民地時代に作られたというジョージタウンまで行ってみることにした。大勢の人々で混み合うバスの最終地で降りると、そこがジョージタウンだ。

 それはジョージタウンという名の名残を一切感じさせない場所だった。建物は占領時代に作られたのだろうが、長い年月をかけてインドの人々が住んで来たこの地区にはイギリスのイの字も無かった。あるのは地元の人々の強烈な熱気だった。狭い路地を覆い尽くすように並んだ店の数々。歩道には永遠に続くかに見える屋台の行列。そしてそこを行き交うインド人の群れ。ここは特に観光名所でも無いので、観光客はほぼいない。地元の人々の生活が根付くこの地区を歩いてみることにした。

 路地に入るとすぐ子ども達がかけよってきて、「ジャパン、ピクチャー!!」と声をかけてきた。カメラを向けるとさっきとは裏腹に、恥ずかしそうにポーズを決める。小学校高学年程の女の子達とその弟らしき男の子だったが、みな裸足だった。そして写真を撮り終わるとその元気な足でどこかへ走っていってしまった。しかし僕も行こうかと進み始めると先ほどの男の子が戻ってきた。今度は自分1人の写真を撮れというのだ。ませた子だなと思いつつカメラを向けると、すくっと背筋を正し、挑むような眼でレンズを覗き込んできた。その姿に僕はある種の緊張を感じた。これからのインドを背負う子どもの逞しさ、そしてインドの未来の逞しさを見た気がしたのだ。写真を撮り終わると彼は一目散に向こうへ行ってしまった。濛々と砂埃の立ち籠める路地の中、裸足で力強く駆ける彼のその姿にインドの強さの一端を見た。

 

 

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力強い眼差しが印象的だったジョージタウンの少年。今後インドはさらに大国になると言われているが、彼のような子ども達がその未来を作っていくんだな。

 

 ジョージタウンで市場を冷やかしつつ堪能した僕は、家に帰ることにした。バスで帰っても良かったが、街の探索も兼ねて歩いて帰ることにした。

 車の行き交う大通りを抜けると、橋の入口に至る。橋はこの街を流れる川にかかっており、川の対岸が僕の宿がある地区なのだ。眼下に建つ学校と思しき建物のグラウンドで運動に興じる学生を上から眺めながら橋を渡っていく。

 そして橋はついに川を見下ろすところに来た。何気なしに景色を見ていた僕はそこで立ち尽くしてしまった。そこに広がっていた光景から目が離せなかったのだ。

 それは肩を寄せ合うように立ち並ぶトタン屋根のスラム街だった。川の岸に密集して建っているその中には、ボロを着て子どもを連れている女性の姿が見えた。所々にドラム缶のようなものがあり、おそらくそこで火を起こすのだろう。スラムの家々はトタン屋根に布を被せた簡素なもので、中にはただのテントのような家もある。そして反対側の岸には枯れた低木が立ち並び、大量のゴミが捨てられている。そしてその中をあちこちが禿げている不健康そうなブタや犬が歩き回り、僅かな食料を漁っていた。

 インドに着いてから乞食などの貧しい人は既に見ていた。僕が泊まっている宿の周りにも汚いボロを身に纏った老人や物乞いをする親子連れなどが道路の両脇に並んでいて、確かにそれは眼を覆いたくなる光景だったが、それに近いものにはバンコクでも会っていた。しかしここまではっきりとしたスラム街を目の当たりにしたのはこれが初めてだった。貧しさが寄り添い合って1つの集落を作っていることにも驚いたが、それ以上に強烈だったのはそのスラム街が川の中にあるということだった。川の堤防の外にはごく庶民的な家々が並んでおり、スラム街だけがその堤防の内側に隔離されるように存在していた。そして橋の上から、堤防の外側から、そこがスラム街であるということが鮮明に分かるようになっているその構造こそ、最もショッキングなものだった。チェンナイの地元の人々にも、川の向こう側の人々はスラムの人々なのだと瞬時に分かるその構造は、恐ろしいほどに残酷なものだった。僕はインドに来て庶民の暮らしを見ていたように感じていたが、その川の境界線には僕には決して超えられないボーダーがあった。そしてその向こう側にはもう1つのインドがあった。その大いなる河は、僕が単なる一介の観光客に過ぎないということを痛切に教えていた。

 この旅を始めた当初、僕はその土地に行きそこに根付く人々の暮らしを見たいと考えていた。完全に同じ生活は無理だが、唯の観光客にはならず、地元の人々と同じものを食べ、同じ景色を見て、出来るだけその土地の人々のように暮らしてみたいと考えていた。しかしその河は、それが単なる思い上がりであり、僕は日本から来た興味本位の観光客だと言っていた。河は彼方と此方を超然と区別し、そして僕は此方側の人間だったのだ。僕には橋の上からそのスラム街を眺めることしか出来ない。僕はそのスラム街を日が沈むまで取り憑かれたようにずっと見ていた。

 次の日、僕は荷物をまとめ宿を飛び出した。昨日見たスラム街の景色がずっと頭から離れなかったのだ。先に進まなければならないというより、これ以上チェンナイにいてはいけない気がしたのだ。僕は半ばあのスラム街から逃げるようにして街を出た。

 その後はマハーバリプラム、ポンディシェリと近くの街を一日ごとに移動した。マハーバリプラムはバターボールで有名な村で、そこまで観光地化されておらず居心地の良い場所だった。ポンディシェリはフランス風の建物の立ち並ぶ地区のある洒落た街で、インドにいることを忘れさせるような風景だった。そうして矢継ぎ早に街を移動した僕が次に目指したのは、ケーララ州だった。

 

 

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マハーバリプラム名物のバターボール。当然だがどう押してもビクともしない。日本でよく見るように、インドの受験生もここに来て「絶対落ちませんように〜。」とかやっているんだろうか。

 

 

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美しいポンディシェリの街並。ちなみにフランス風の建物が並ぶ地区は海沿いのみで、あとは普通のインド街なので要注意。インドのブルジョア達がバカンスで遊びに来ていた。
 

 ケーララ州はインドの中でも教育水準が高く、治安の良い長閑な州として知られている。そのケーララの中心地であるコチという街で何日か過ごそうと考えたのだ。クーラーの効きすぎた夜行バスに揺られながら、僕は西に向かった。

 コチは海に面した静かな街で、僕はこの街をとても気に入った。コチは4つの地区から構成されるが、僕が滞在したのはフォートコチという海に突き出た半島の地区で、チェイニーズ•フィッシングという独特な漁法とキリスト教会で有名な地区だった。

 

 

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ケーララの優しさを代表したようなリクシャードライバーのおじさん。良い人というか商売気が全くないというか、ちゃんと地元プライスで乗せてくれた。どことなく日本の田舎にいるおじさんにも見える。
 

 コチの人々は優しかった。チェンナイではタクシーの客引きなどがかなりしつこかったが、コチの人々は断るとすぐにどこかへ行ってしまう。また値段も良心的で、観光客からぼったくろうという気は無さそうだった。みな海辺の周りでゆったりと過ごしており、中には何を生業に生きているのか分からない人々もたくさんいたが、それをも包み込むほどに街の空気は穏やかだった。僕は朝に露店でチャイを飲み、昼は食堂でミールスを食べ、あとは街をふらつきながらただ海を眺めていた。

 チャイはインドで最もポピュラーな飲み物だ。みな息をするようにチャイを飲む。『深夜特急』で沢木氏がインドで毎朝チャイを飲んでいたことから、インドに来たら朝はチャイだと自分で決めていたのだが、本場のチャイは日本のものとは少し違った。日本のチャイはスターバックスで飲めるもののようにシナモンなどのスパイスが強烈に使用されているが、インドのチャイはスパイス色が薄めで、濃厚に甘いミルクティーだった。ちなみにコーヒーも相当に甘く、ほぼ砂糖を飲んでいるのに近い。これを毎日飲んでいるからインドの大人は恰幅が良いのだろうなと納得しつつ、とにかく毎日飲んだ。

 ミールス南インドでポピュラーなカレー定食で、数種類のカレールーに漬け物のような副菜、そしてヨーグルトのようなデザート、それにライスがついて100円そこそこという破格的な安さだった。ミールスは昼限定で午後には終ってしまい、そして大抵どの食堂にもある。バンガロールという街の駅前にあった食堂は立ち喰いミールス屋で、日本でいう立ち食いソバのように多くの人が立ったままミールスをかき込む様は強烈なものがあった。僕はインド滞在中このミールスも毎日のように食べた。食べ方はもちろん右手のみを使い素手で食べるインドスタイルで、最初の方は慣れずに周りのインド人から笑われていたが徐々にコツが掴め、インド滞在も終りの方ではかなりネイティブに近い形になっていたと思う。

 

 

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これがバンガロールで遭遇した立ち喰いミールス。出発までのわずかな時間に大勢のインド人たちがミールスをかっ込む様は、さながら新橋のサラリーマンのよう。

 

 コチで数日を過ごした僕はアラップーザという南の町に行った。ケーララの南部は細かな川の入り組む水郷地帯になっており、そこを船で巡るツアーが数多く出ていて、アラップーザはその起点となる町だった。バックウォーターと呼ばれるその水郷地帯をのんびりボートで巡った僕がそして次に向かったのは、ハンピという村だった。

 ハンピという村の存在はインドに来るまで知らなかったが、チェンナイの宿で出会ったバックパッカー達がみなオススメの場所として推していたので、行ってみようかとなったのだ。しかしこのハンピは片田舎にあるため、列車とバスを乗り継ぎ、丸一日ほどかけてようやく辿り着いたのだった。

 しかしハンピは、その長い移動時間をかけても来る価値の十二分にある素晴らしい場所だった。昔は王国があったというハンピは村全体が遺跡で囲まれており、いたるところに遺跡があった。また長い年月が作り出した巨石群が遥か遠くまで連なっており、神秘的な雰囲気を宿していた。それほどに観光地として素晴らしいにも関わらず、交通の便がかなり悪いためにそこまで観光地化されておらず、村には観光客向けの居心地の良いレストランが数軒とゲストハウスがあるのみで、どこを切りとっても居心地の良い場所だった。

 ハンピに着いた初日、僕は現地で出会った日本人の方と村全体を見下ろせる丘の頂上まで登ってみた。夕暮れ時のオレンジ色に染められたハンピは日本には有り得ない景色で、自分が遠い異国に来たのだなと改めて感じた。それに今まで旅をしてきた中で、観光地らしい観光地はこれが初めてだった。東南アジアでもインドでも、どちらかというと街を歩き回ることがほとんどだったので、ようやく海外を旅している気分になったのだった。しかし心のどこかでまだ、あのスラム街の光景が忘れられないでいた。

 

 

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丘の頂上から見たハンピの景色。ちなみに写真の人物はハンピの浮浪者では無く、日本からの観光客。

 

 

 チェンナイの後に旅したコチやアラップーザ、ハンピなどは南インドということもあってかどこも治安も良く長閑な場所だった。しかしどんなに穏やかな街にも確実に貧困層は存在した。道路の片隅でうずくまる親子の乞食。グラウンドのような原っぱに建てられた無数のボロテント。駅の構内を永遠に徘徊するあばらの浮き出た痩せこけた老人。東南アジアで見たどの貧しさよりも、インドの貧しさは鮮明だった。

 インドには富裕層ももちろん存在した。近年経済成長を続け、IT大国となっているインドにはリッチな人々も少なからずいた。それにリッチとまではいかずとも、IT企業に勤めているといったようないわゆるインテリの人々にも会ったりした。そして驚いたことは、裕福な人々も貧しい人々もお互いのことをどうとも思っていないようであったことだ。一般的な感覚であれば貧しい人々は裕福な人々に施しを求め、あるいは嫉妬するだろう。反対に裕福な人々はそのような貧しい人々を蔑み忌避するだろう。しかしインドはどちらがどちらをも当然のこととして受け入れていた。そして自身の立場に対する誇りや恥、相手の立場に対する蔑視や羨望は無さそうだった。実際に本人達に尋ねたわけでは無いので実際のところは分からない。しかし彼らの振る舞いや態度から、そのように思えるのだ。裕福な人々は乞食達を見て見ぬ振りなどしないし、乞食は裕福な人達だけでなく、自分とあまり変らないような身なりの人々にも物乞いをしていた。貧しいものも富めるものも超然としてただそこにあった。『印度放浪』にて藤原新也は、ヒンドゥー教には輪廻転生という観念があるからインドの人々は自分の今の立場にこだわらないんだ、というようなことを言っていた。今が貧しくてもいつか生まれ変わるから、今を受け入れて自然と生きる。これが藤原氏の言っていた光景なのかと、その時僕は彼の言葉の意味を理解した。

 しかし富と貧が共存する光景は、日本という国から来た僕には壮絶なものがあった。そして毎日目に飛び込んでくるその剥き出しの貧しさから、僕はだんだんと目を逸らしたくなっていた。ハンピでの日々は過ぎていった…..。

 ハンピの次に行く場所として、最初は北に位置するエローラ、アジャンター石窟寺院を考えていた。ハンピと並んで出会った多くのバックパッカーに勧められた場所であったし、ここからだと割と近い。そこからムンバイなども近かった。

 しかし、5月も後半になったインドには雨期が近づいていた。インドを始めとする南アジアは6月から本格的な雨期になり、泣く子も黙るモンスーンが田畑を潤す時期なのだ。そして僕には、インドを旅した後にネパールでヒマラヤを見るという予定があった。しかし雨期に入ってしまうとあの美しい山脈は見られなくなってしまう。年によっては5月の後半から雨期の始まる年もあるそうで、うかうかしていると好機を逃してしまう。僕は一度インドを出てネパールに行くことを考え始めた。残りのインド旅はヒマラヤの後にすればいい。しかしそれは何もヒマラヤだけが理由では無かった。率直に言うと、僕はインドを離れたくなっていたのだ。先に書いたように、僕は毎日のように出会う貧しさから逃げたくなっていた。地元の人々のように生活しようと息巻いていたのにも関わらず、早々に根を上げていたのだった。情けない話であるが、僕は完全にインドに負けていた。

 駅へ行き、ニューデリー行きの寝台列車を買った。明日の夜にハンピを出て次の日の朝10時にニューデリーに到着する列車だ。ニューデリーから先は何を使うか決めていないが、とにかくネパールのある北を目指すことにした。そうするとその夜から食あたりで下痢になってしまった。下宿のベッドに横になり、どこまでも負けっぱなしだなと天井を見つめながら1人笑った。どうやらインドからケツをまくられているようだ。観光客は前へ進まなくてはならない。

 次の日の夜楽しかったハンピと別れ、まだグルグル言い続けている腹をさすりながら列車に飛び乗った。まずは乗り換えの駅までの2時間ほどの旅だ。

 僕の向かいの席には孫とおじいさんの2人組がいた。おじいさんはかなり高齢のようで、杖を持つ手もおぼつかない。そんなおじいさんを支えるようにして寄り添う少年は年の頃13~14ほどで、アジア人の僕が物珍しいのかしげしげとこちらを見てくる。こちらから声をかけると、おずおずと喋り始めた。 

 どうやら少年とおじいさんは親戚の家へ行く途中のようだ。彼は父親を亡くしていて、だから彼がおじいさんの付き添いをしているらしい。何とも純朴そうな少年で、いろいろと話をしていく中でガールフレンドはいるかと尋ねると、顔を赤らめながら首を横に振っていた。 

 そうこうしているうちに周りの乗客達が食べ物を取り出し、夕食を食べ始めた。そういえば夕飯を買うのを忘れてしまった。忘れたも何も、ハンピの駅は小さすぎて、駅の購買など無かったから仕方ないのだが。

 窓の外を眺めながらやり過ごそうとしていると、おじいさんが声をかけてきた。見ると自分達の夕食を指差し、君も食べるかとジェスチャーしている。僕は感動のあまり、つい日本語で「ありがとう…!」と言ってしまった。インドに疲れていた僕にとって、それは久しぶりの感覚だったからだ。

 夕食は自家製のチャパティとカレー風味の炒め物だった。店のほど濃くなく、優しい味のそれは僕の胃袋と心を満たした。向かいの少年を見ると、彼もこちらを見て微笑んでいた。

 乗り継ぎの駅で3時間ほど時間を過ごし、ニューデリー行きの寝台列車に乗り込んだのは深夜も1時を過ぎていた。暗闇の中でやっとのこと自分の席を見つけると、そこでは男がいびきをかきながらグーグー寝ていた。

 場所を間違えたのかと思いチケットを何回確認してみても、やはりこの席で間違いない。どういうことかとうろたえていると、隣の席で寝ていた欧米人が僕に気づき、僕の席で寝ているインド人の男を起こしてくれた。起こされたインド人は何事も無かったかのように席から降りると、どこかへ行ってしまった。僕は欧米人の彼に礼を言い、寝床へ滑り込んだ。

 インドの列車はユニークだ。寝台列車にはいくつかのクラスがあり、僕が選んだ3等はその中で一番下のクラスなのだが、列車内にはそれらのチケットを持っている人の他に大勢の人々が乗車している。もちろん、無賃乗車の人々だ。彼らはチケットを持っている人が来るまで、平然とその席へ居座る。そして席の主が来ると、何食わぬ顔で別の場所へ移動する。3等の寝台列車は夜になるとベッド式になるが、日中は向かい合わせの席で運行する。そして日中はその横掛けの席にチケットを持たない人々が次々と来て座っていく。お年寄りが来た場合はチケットを持っているこちらが席を譲らなくてはならない場合もあるくらいだ。しかしだからと言ってチケットの有る無しを議論にする人は1人もいないし、みな当然のこととして座席を共有している。そしてその慣習に漏れず、あのインド人の男も僕が現れるまで快適な眠りを楽しんでいたのだ。ちなみに夜中に席を追い払われた彼らはどこへ向かうのか。それはデッキの床で、大勢の人々が折り重なるようにしてトイレの前などで寝ている光景は、壮観である。

 次の日周りの人々の動く音で目が覚めると、列車はインドの大平原のただ中を突っ走っていた。席を元に戻すと昨日の彼が向かいに座っていた。

 彼は同じく欧米人の女性と一緒に座っていた。イタリアから来たようだ。挨拶を交わし、車内販売のボーイからチャイを買うと窓の外を流れる景色に目をやった。どこまでも続く赤茶けた大地がそこにはあった。今日の朝10時にはニューデリーに着く予定であるのに、まだかなり田舎だった。やはりニューデリー付近だけが都会で、そのすぐ外はずっと田舎なのかと思いながら、ぼんやりと変らない景色を眺め続けた。

 しかし列車は待てども待てどもニューデリーに着かなかった。さすがにインド時間とはいえ、12時になっても相変わらず赤茶けた大地は遅過ぎるだろうと、しびれを切らしてイタリア人の彼に尋ねてみた。

「この列車って今日の朝10時着だよね?」

「ん、今日?いや、明日の10時だよ。チケットを見てごらん。」

 まさかと恐る恐るチケットを確認すると、そこには彼の言う通りしっかりと明日の日付が記されていた。そう、僕は到着を丸一日勘違いしていたらしい。確かにニューデリー行きにしては到着が早いなとは思っていたが。ということは後一日、この堅い座席の列車で過ごさなくてはならないのか。一気に遠のく意識を必死で呼び戻しつつ、僕は外の大地を恨めしげに睨んだ。

 しかし、結果としてこの列車での2日間はインド旅で最も思い出に残るものとなった。この列車はまさにインドの全てを詰め込んだようなものだったのだ。

 落胆した気持ちを堪えつつ、イタリア人カップルと話し始めた。彼らはニューデリーに着いた後、更に北のリシュケシュに向かう予定らしい。そこはビートルズが瞑想をしたことでも有名なヨガの聖地だ。何でも2人はサイババに強い影響を受けているらしく、彼の教えを勉強しに向かっている最中らしい。サイババという人物をみなさんは御存知だろうか。インドで様々な奇跡を起こしたとされる霊能力者のような人で、日本でも1990年代に彼に関する本が出版されるなどして大きな話題になった。彼らはサイババヒンドゥーの教えに共鳴し、それを実践するためにインドを旅しているのだそうだ。しかし君たちはキリスト教徒では無いのかと尋ねると、昔はもちろんそうだったがキリスト教の偽善的な教えが信じられなくなり、インドの教えに傾倒したのだと言っていた。西洋的な価値観や宗教観に違和感を覚えインドを旅している欧米人は多そうだが、インドでよく見るヒッピー風の気怠げな欧米人とは違って、彼らはしっかりとした哲学を持っているようだった。そしてそういう自分は一体何を信じて生きているのだろうかと、ふと立ち止まってみたが答えは全く出なかった。

 列車はインドの大地を悠々と進んでいた。僕らの席には様々なインド人がやって来た。ニューデリーヒンドゥー教の大会に参加するという青年や、チャパティをお裾分けしてくれた男性2人組。インド軍の兵士の方達もいた。そんな彼らと様々な話をしながら時を過ごした。

 そしてインドの列車の面白いところは車内販売を始めとして、多種多様な人々が列車内をいったりきたりしていることだ。チャイやコーヒー、軽食の類いから、子ども向けのおもちゃや時計、果ては何に使うかさっぱり分からないガラクタを売っているものまで、多くの売り子が陽気な声を上げながら歩いている。そして彼らの列に混じって乞食が物乞いにやってくる。ただの貧しいものから身体に障害を持つ息子をおぶった親子連れまで様々だ。更にはサリーを身に纏った聖職者のような人達まで施しを求めてやってくる。そして極めつけは、インドのオカマが腰をくねらせながらこちらに抱きついてきた。このように、色とりどりの人々がまるで人間大博覧会というように僕らの前を通り過ぎていった。チャパティを分けてくれるような優しいインド人から、僕とイタリア人カップルに対して何故か猛烈に怒っている乞食まで、清も貧も老いも若きも全てがそこにあった。インドがそこにはあった。隣の席の老人達がインド民謡を合唱し始めた。喧噪と狂騒のニューデリー•エクスプレスの旅は続くのだった。

 次の日、目を覚ますともう赤茶けた大地では無かった。小さな村々や橋の下を窓に映しながら列車は進んでいた。言うまでもないことだが、多くのスラム街や貧民があった。たまにその中の子どもと目が合った。彼らはまっすぐに僕を見つめていた。今までならすぐ目を逸らしていたろうが、その時僕はじっと彼らを見返していた。そして、ネパールに行った後にインドへは戻らないことに決めた。

 エローラやアジャンターのみならず、インド行きを決めた当初の目的だったタージ•マハルやガンジスの沐浴もまだ見ていない。なのに何故インドを訪れないことに決めたのか。それは確かにインドに疲れていたせいもあっただろう。しかしそれ以上に、これまで様々なインド人と出会い、たくさんの貧しさを見てきた僕には、タージ•マハルもガンジスの沐浴も大事なことには思えなくなっていたのだ。当初はガンジスで沐浴をする地元の人々を写真に収めようと思っていた。そして神秘的な写真が撮れればいいなどと思っていた。しかし、それは何か間違った行動のように思えてきたのだった。ガンジスに行かずとも、これまでたくさんの人々の暮らしを見てきた。それでいいではないかと思ったのだ。何もガンジスで沐浴する人々が特別なわけでは無いからだ。そして、このタイミングがインドを去る時であると感じていた。観光名所の数々にはまた今度行けばいい。ただ今は行く時では無いと感じたのだ。僕はインドに負けたのだった。

 そしてこのインド旅を経て、僕の旅のスタイルは大きく変った。無理に地元の人々と同じものを目指そうとせず、海外から来た一介の観光者=ストレンジャーとして、その国の生活や文化を外側から観察することに決めたのだ。この心境の変化を与えてくれたことに、僕はインドに大いに感謝している。

 その日、列車は無事にニューデリー駅に着いた。イタリア人カップルとお互いの旅の幸運を願いながら分かれた。僕らに憤っていた乞食はまだ駅のホームで暴れていて、周りのインド人達に制されていた。その日のうちにニューデリーカトマンズ行きの飛行機を取ると、ニューデリーの空はオレンジ色に染まっていた。この街も他と変らず、どこまでもインドだった。騒がしい客引きと、乞食と、タリーの匂い。

 インドの最後の晩餐にはタリーを食べた。ミールスに近いカレー定食だ。ネパールでも素手で食べるのだろうかと考えながら、夢中でかき込むと会計に向かった。差し出したインドルピーには、微笑むガンジーがいた。しかしそのガンジーはどうもこっちに向かってニヤッと笑っているようだった。

「おまえは若いし弱かったってことだな。まあ次まで待っといてやるよ!」