砂漠とラマダン、旧市街とミントティーのビート

 モロッコに行こうと思い立ったその理由は、ほとんど無いと言って等しい。しかし理由が無いのが理由、と言えば都合がよすぎるだろうか。モロッコという国に関しては何も知らなかった。位置する場所くらいは知っていたが、首都の名前も怪しかった。とにかくどんな国か想像がつかない、分からない。ただ1つ興味深かったのは、かの昔この国にビート文学の作家たちやローリングストーンズのメンバー、ジミヘンドリックスやボブマーリーといった当時のスターがこぞって訪れていたということだった。一体何が彼らを引きつけたのか。それも含めたモロッコの“分からなさ”が僕を呼び寄せたといっていい。まだ何も知らない、というこの上無い幸福を味わいに、僕はモロッコにやってきた。

 TOTOの『Africa』がイヤホンから静かにフェードアウトしていくと同時に、カサブランカの赤茶けた大地が眼下に広がってきた。人生初のアフリカ大陸は、「君の瞳に乾杯」で有名な港町だった。イングリッド•バーグマンを探して、空港を出て宿までの街並に眼を凝らすが、街には『アイアムレジェンド』よろしく誰もいない(映画ネタが多い)。本当に人っ子1人いないのだ。店も全て閉まっていて、廃墟の街のようだ。

 不安と孤独と空腹を感じる中、宿の近くまで来るとようやく人々の声が聞こえてきた。広場のような場所で子ども達がサッカーに興じている。宿はその広場の向かいにあった。宿の主人はモロッコ緒形拳といった見た目で、味わいのある笑みを浮かべながら部屋を案内してくれた。他にいた若手のスタッフは日本語を少し知っているようで、僕に向かって「アリガトウ、センセイ!」と連呼していた。一体何のセンセイなのか。

 部屋で一息着き、忘れていた空腹を思い出したので、食料を探しに外へ出た。しかし相変わらずこの辺りも全ての店は閉まっている。いくら発展途上のアフリカとはいえ、カサブランカは有数の都市のはずだ。知らないうちに経済破綻でも起こしたのかと思い、センセイの彼に尋ねると「ああ、センセイ。今はラマダンね。だから夜になるまで店はオープンしないのね。」と笑顔で答えてくれた。

 ラマダン。日本人には馴染みの少ないだろうその信仰の実践を、僕も言葉でしか知らなかった。モロッコイスラム教の国であり、そして今は年に一度のラマダン期間なのであった。その期間は基本的に夜になるまでどの店も開かず、モロッコの人々は当然のことながら、日の出から日没まで何も口にしない。だから宿に来るまでに通った店も閉まっていたのだ。そして運が良いのか悪いのか、今年のラマダン期間はガッツリ僕のモロッコ滞在時期と丸被りしていた。

 途方に暮れていると、センセイ君が「そろそろ今日のラマダンが終るけど、センセイも一緒に食べない?」と誘ってくれた。どうやら彼らの食事を分けてくれるらしい。遠慮したが、どうせ余るんだからと肩を叩く。モロッコの食事にも興味があったので、彼の言う通りにしてみた。

 1時間ほどすると、食堂の机に料理が並び始めた。パン、パン、パンと様々なパンが並ぶ。そして魚を焼いたものと、ケバブのようなスモークされた鶏肉。あとはオレンジジュースとお茶の入ったポット。一応魚や鶏肉はあるものの、パンと飲み物が圧倒的多数を占めており、夕食というよりブレックファーストのようだった。センセイ君はラマダンが終るのが待ちきれないようで小躍りしており、それを緒形拳が優しく見守っている。

 色とりどりのパンをいただいていると、緒形さんがお茶を勧めてくれた。紅茶か何かと思い一口すするとその瞬間、ミントの匂いが鼻腔いっぱいに広がった。これは、という顔をしていると、センセイこれはモロッコティーだよ、この国ではとてもポピュラーな飲み物だよ、とセンセイ君が教えてくれた。なるほど、日本だと緑茶に当たるものらしい。しかし驚いたのはミントでは無く、その甘さだった。何しろ強烈に甘い。ミントの風味が無ければほとんど砂糖を飲んでいるのに近い。どっかで聞いたぞこのフレーズ。インドといいモロッコといい、どうしてここまで甘党なのだろう。シュガーで溶けかかった笑顔を彼に向けて、デリシャスと微笑んだ。

 

 

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場所はカサブランカでは無いが、これがモロッコティー。ハマる人にはかなりハマりそうな、ジャスミンティー的な感じかな。ちなみにモロッコティーが好きだと言うと、現地の人はかなり喜ぶ。

 

 

 次の日からカサブランカの街をブラブラしてみたが、どうやらこの街は観光向けではないらしい。食料を扱う店以外は開いていてもいいものなのに、どの店もシャッターを降ろしており、いなたい猫がその前を通り過ぎていく。ハンフリー•ボガードが見たら泣くぞ、この光景!と思ったが、ビーチに広がる青い海と空だけはどこまでも素晴らしかった。

 そろそろカサブランカを去ろうかと思っていたある日の午後、僕は旧市街=メディナの市場をブラついていた。当然観光客はおらず、地元の人々と押合いへし合いしながら混雑する通りを渡り終えると、ここで一瞬のうちに心臓が猛烈な速さで鼓動を始めた。それは、ある事実に気づいたからだ。

 外していたメガネを取り出そうと背負っていたカバンを前に持ってくると、確かにそこにカバンはあった。しかししっかりと閉められていたはずのファスナーは何故かザックリと大口を開けており、その中にあるはずのメガネとカメラが忽然と姿を消していたのだった。

 一瞬何が起きたのか分からず、そして一瞬のうちに何が起きたのかを理解した。そう、ついにこの旅で初めてのスリにあったのである。人通りの多いところではカバンは体の前に持ってくるべし、という初歩的なポイントを押さえ忘れた僕は、こうして思い出の詰まったカメラと、新宿のゾフで買ったメガネをモロッコのバッドガイに献上したのだった。

 ああ、と小さくため息をつくと、当然ながら犯人の消え去った通りを振り返った。あのカメラにはサークルの合宿で撮った写真も入っている。顔も知らない彼は、大きなザックを抱えた東洋人たちの笑顔を見てどう思うのだろう。

 次の日、朝一番で交番まで行った。戻ってくることは当然期待しておらず、被害届を貰いにいったのだ。こうなれば加入している保険会社から出来るだけ金を貰ってやる、という貧乏根性で早起きをした。

 交番に行くと、そこには2人の男がいた。デスクの向こう側に座っているからには警官なのだろうが、2人とも私服でスマホをいじっている。多少面食らっている僕の存在に気がつくとボンヤリとした目で、どうしたのかと尋ねてきた。一通り事情を説明すると、その2人組は大きく頷きながら、よく分かった、捜査をするから夕方にもう一度来てくれ。その時は受付が変っているから、その彼女に初めて来たようにもう一度事情を説明してくれ。これには深い訳があるんだ、くれぐれも初めて来たように振る舞ってくれよ、頼むよ。と言い放ち、またスマホをいじり始めた。

 何故もう一度同じ段階を踏まなくてはならないのか皆目分からなかったが、警察がそう言うなら仕方が無い。僕はスゴスゴと宿まで引き返し、そして夕方にもう一度交番を訪れた。

 受付にはヒジャブを身に着けた恰幅の良いおばさんが座っていた。彼女も私服だった。モロッコの警察は制服を持っていないのだろうか。一応先ほどの2人に言われたように初めて来た体で話し始めると、被害届を出すことは出来るが、渡せるのは明日になるよと言われた。しかしそれでは問題があった。スリに会う前からマラケシュ行きのバスを取っており、それが明日に発つ予定だったのだ。その旨を伝えると、彼女は険しい表情で苛立ち始めた。何故被害にあってすぐここへ来なかった、今日は一日何をしていたんだ、と。朝早くから来ていたのに怒られた僕はカッとなり、あの2人とのやり取りを一部始終彼女に話した。すると彼女はしばしの沈黙の後、口元に不適な笑みを浮かべながら、後ろにいる他の同僚に大声で話し始めた。そして僕に向かって、うちの同僚が大変失礼なことをした、今日中に被害届が渡せるようにやってみる、と言った。

 驚くべきことにどうやらあの2人組は、この件を担当するのを面倒くさく思い、僕にウソをつかせることで仕事を彼女たちに投げたのだった。早い話が、警察が庶民にウソをついて仕事をサボったのである。これはかなりの衝撃だった。それ、アリなの?という大きなクエスチョンマークが僕の周りを漂い、婦警の頭上あたりで破裂した。日本では警察にお世話になった機会が有り難いことにほぼ無いのでデータは少ないが、さすがにこれは無いだろう。モロッコという国のモードというか、あるスタンスをここに見た気がした。

 婦警に被害当時の状況などの質問を受けていると、入口のドアが勢い良く開き、あの2人組の片割れが入ってきた。彼女はすぐさまものすごい剣幕で彼に詰め寄ると、そこから被害届なんかそっちのけの大口論になった。サボった彼は、それは何かの間違いだ、この東洋人は自分から勝手に帰っていった、俺はそんな指示は出していない。みたいなことを言い、僕を指差して、君は何か勘違いをしていると非難し始めた。そう言われれば当然僕も戦いに応じ、当時の状況を詳細に彼女に話して、彼がいかにいい加減かを説明した。この彼は普段から信用の置けない人物のようで、彼女は全面的に僕の話を信じてくれた。最後に彼は捨て台詞のようなものを吐いて、交番から出て行ってしまった。

 マラケシュに2~3日ほど滞在した僕は、エッサウィラという海辺の街に移動してきた。当初はマラケシュのホテルで見つけた砂漠ツアーに参加しようと思ったのだが、お腹を下してしまい(フナ広場で食べたカタツムリのせいだと思う、絶対に)、どうも行くタイミングを逃してしまったのだ。しかしエッサウィラ滞在の後にまたマラケシュへと戻る予定だったので、砂漠の旅はその時でもよかった。

 エッサウィラカサブランカと違い立派な観光地で、メディナには多くの観光客がいた。しかしそこまでバリバリの観光地では無く、適度に賑わっている光景が心地いい。何でもこの街はあのジミヘンドリックスが惚れ込んで長く滞在した街のようだった。確かに防波堤から見える北大西洋に身を委ねていると、何かすごい名曲が書けそうな気がしてくる。まあ、書けないんだけど。

 

 

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エッサウィラのビーチから眺める海。この浜辺にはテラスのあるレストランやカフェもあり、欧米人の老夫婦が仲良くデートをしていた。

 

 市街をブラブラし、カフェに入って漫然と本のページをめくる日々を送っていたある日、通りの片隅に日本語を見かけた。しかも赤提灯に書かれたそれだ。周りの景色とのあまりのミスマッチ感、しかし妙にしっくりきているフィット感に惹かれて近づいてみると、そこには素晴らしい明朝体で大きく、“たこ焼き”と書かれていた。日本から遠く離れた異国の港町に、何とたこ焼き屋があったのである。

 あまりの突然の邂逅に戸惑っていると、そこへ日本人のカップルがやってきた。どうやらこのたこ焼き目当てにやってきたようだ。彼らの話では、何でもここは日本人観光客には有名な店のようだった。しかし何故モロッコでたこ焼きなのか。しかも店主は普通のモロッコ人だった。ますます謎は深まるばかりだ。

 せっかくなので買ってみることにした。日本のものと同じたこ焼き器で焼かれたそれは、正しくたこ焼きそのもので、1つ違うことといえばソースとマヨネーズではなく、少し酸っぱいタレが上に塗られていたことだった。そして一口。ウ、ウマい!かなりウマい。何なら日本にあるそこらへんのたこ焼き屋よりもよく出来ている。カリッと焼かれた生地の中にはタコの他にもイカやホタテなどの様々な海鮮が入っていた。そういえばエッサウィラは海の街だ。なんとなくここにたこ焼き屋のある理由が分かった気がした。

 

 

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これがエッサウィラの片隅にあったたこ焼き。大阪の人がどう言うかは知らないが、僕にはとても美味しかった。全てに楊枝が指してあるのがミソ!

 

 エッサウィラで爽やかな数日を過ごした僕は、一路メルズーガを目指した。マラケシュに戻る予定だったが、たこ焼き屋で出会った2人の話によると、マラケシュにあるホステルの砂漠ツアーは当たり外れが大きいので、砂漠付近の町まで自分で行き、そこのホステルのツアーに参加する方が安くて良い、とのことだった。なのでマラケシュには戻らず、砂漠ツアーの出発地であるメルズーガを目指したのだった。

 

 

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エッサウィラの港で開かれていた魚市場。日本でもよく見る光り物の魚から、アンコウのような形をした得体の知れない魚まで、よりどりみどりだった。そしてカモメがそれを空から狙っていた。

 

  バスは代り映えの無い景色を車窓に描きながら、モロッコを横断していった。乗客は途中の街でどんどん降車し、夕暮れになるころには10名も乗っていなかった。どうやらここにいる全員が、砂漠を見に来たようだ。僕も含めたほとんどがアジア人だった。

 辺りに夜が訪れ、街頭に灯りはほとんど無いので、すっかり暗闇に包まれた中を、バスはようやくメルズーガに到着した。バスから降りると、予約していた宿のスタッフがジープで迎えに来てくれていた。どうやら宿はメルズーガから少し離れた別の村にあるようだった。バスにいた他のアジア人も何名か乗り込み、みなで今日の寝床を目指し出発した。

 ジープの中には僕の他に宿泊客が4人いたが、話してみると彼らはみな韓国人だった。しかもそれぞれ別で来たらしく、英語と韓国語が飛交いながら互いに挨拶をした。そして宿に着くと夕食が用意されており、それを5人並んでつつき合ったので、食べ終る頃には互いにすっかり仲良くなっていた。宿の主人に聞くと砂漠ツアーは明日の夜に発つそうだったので、日中の空いた時間を、5人でメルズーガツアーに参加することにした。

 ジープはメルズーガの大地を疾走していた。日中のメルズーガツアーは街の近郊にある観光スポットを巡るというもので、乾いた熱気で満たされた静寂の地を、僕らは目に焼きつけていった。映画『星の王子さま』のロケに使われたというロケットを見たり(不勉強ながら、星の王子さまのストーリーはよく知らなかったが)、オアシスの現象が体験出来るスポットに行ったりと、砂漠の街らしいスポットを余すところ無く巡った。

 

 

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 メルズーガ近郊の荒涼とした風景。スターウォーズの世界観にも似たその景色、やはりどこまでも何も無いという広大さがロマンである。
 

 途中に印象深かったのが、砂漠のあるポイントで写真撮影をしていると、人形やアクセサリーといった雑貨を両手いっぱいに抱えた子どもが僕らの近くにやってきて、地面にそれらを並べ始めた。どうやら彼女は小さな小さな売り子のようだ。僕らが戸惑っていると、ツアーガイドをしてくれていた宿の主人が、この子から物を買わないでね、と困ったように言った。訳を聞くと、この子は当然ながら親の言いつけでこの仕事をしており、そのせいで学校には行かせてもらえないのだそうだ。観光客が物を買うかぎりこの子は仕事をやめられないので、買わないことが一番この子のためになるということだった。そうすれば親も諦めて学校へ行かせるようになるという。こちらを黙って見つめる彼女の目は砂漠に漂う蜃気楼のように虚ろで、その顔に貼付けられた表情は、とても5〜6歳のそれでは無かった。無邪気に記念撮影を楽しむアジア人と彼女の間に存在する、そのあまりの違和感に僕はしばしその場に立ち止まった。彼女の目に僕はどう映っているのだろうか。その後ジープは彼女を残して走り始めたが、辺りを見渡しても家らしきものは一向に見当たらず、ただ彼女の歩いてきた足跡が延々と砂漠に小さな弧を描いているのみだった。

 頭をポンポンと2回ほど叩かれると、ラクダはムクッと折り畳んでいた足を広げ起き上がった。乗り心地は良いとは言えないが、意外と安定はしている。夕闇の迫った頃、総勢15名ほどの一行は、砂漠の中にあるキャンプ地へと出発した。 

 砂漠の中をラクダは悠々と進んでいく。おそらく毎日のように観光客を乗せているのだろう。彼らの歩き方にはどこか気怠さのようなものがあり、“また観光客かよ、つまんねえなあ”とでも言いたげな足運びで、後ろに糞をポコポコ落としていく。その糞の向こうに見える砂漠は、オレンジ色の夕暮れに包まれながら地平線の向こうへと消えていっている。ラクダが大きく鼻を震わせた。

 

 

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砂漠を進むラクダの一行。降りる時にはまずラクダがしゃがむのだが、その時のカクンッ、という感覚が妙に楽しかった。あとラクダさんはみんな目が死んでいた。

 

 1時間ほどの乗馬、ならぬ乗ラクダを終え、僕らは今日の寝床であるキャンプ地へと辿り着いた。そこにはモンゴルのゲルのような大きなテントが幾張りもあった。宿に荷物を置きしばらくすると、夕食の時間となった。

 夕食はキャンプ地の真ん中にある大テーブルにて全員で取ったのだが、いざ席に着いて周りの人々と会話を交わしてみると、何と僕とフランス人の男性を除いた全員が韓国人だった。しかもそのフランス人の彼は韓国人の彼女と共に来ていたので、実質僕だけが異国人のようなものだった。

 驚いている僕に宿の主人が説明してくれたことによると、この宿は数年前までほとんどの客が日本人だったが、数年前にある日本の方が韓国人の知り合いを連れてきて、そしてその韓国の方がブログで紹介したことから、砂漠ツアーに来る韓国人の定番宿になったのだそうだ。そういえば、マラケシュでもエッサウィラでも日本人以上に韓国人と中国人が圧倒的に多かった。今彼らの間でモロッコがブームなのだろうか。

 そんなこんなで、僕(とフランスの彼)だけのために皆が英語を使ってくれ、そして時には日本語も飛交いながら(韓国では高校の選択外国語で日本語があるらしい)、楽しいディナーは過ぎていった。食事が一段落すると、スタッフたちがモロッコの民族楽器を取り出し、彼らのライブが始まった。コンガのような太鼓を使って編み出されるその音楽には軽くトランス状態になれそうなほどの呪術的なリズムがあり、薄明かりに照らされた彼らをみながじっと見つめていた。すると次の瞬間、「オッパン、カンナムスタイル!」と彼らが陽気に歌い始めたので、一気にずっこけてしまった。ちなみに後でPPAPもしっかりやっていた。

 ライブの後、キャンプ地近くの小高い丘に上がった僕らの現前に広がっていたのは、辺り一面の星空だった。夜の砂漠は星空の明かりに微かに照らされ、淡い白を纏ってどこまでも続いていた。砂は昼間の熱を失ってひんやりと冷たく、それが寝転がった腕や首筋に心地よかった。全く知らない土地の知らない大地で、こうして仰向けに星空を眺めていることが俄には信じ難かった。それほどに、幻想的な夜だった。

 

 

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夕暮れを迎えるサハラ砂漠。遥か彼方まで見渡していると、全ての感覚がフッと消え、この景色と一体になるようだった。世界は広かった。

 

 

 メルズーガを後にした僕は、一路北を目指した。目的地はタンジェという港町だ。ここからスペインへのフェリーが出ており、それを使ってかのヨーロッパへと渡る予定だったのだ。そしてこのタンジェこそは、その地理的位置から中々に興味深い歴史を味わっており(ヨーロッパ各国に攻め込まれる、征服される、国際管理にされる等々)、またビート文学の旗手バロウズが滞在して『裸のランチ』を書いたことでも知られている。どうやら彼以外にも大戦後の混乱の中でナチの残党やら犯罪者やらミュージシャンやら作家やら、つまりは一筋縄ではいかない曲者たちが大勢潜伏(滞在というより潜伏)していたそうで、そんな危うげな街の薫陶(いいものかどうかは不明)を受けに寄ってみたのだった。

 近づいてきたタンジェは思ったより綺麗な街並で、これまでのモロッコの都市と違いヨーロッパのそれに近い。海の向こうはもう欧州なので、2つの世界が混ざっているようだった。しかし旧市街に着くと相変わらずの景色と匂いで、しかも観光客向けでないあたりがカサブランカを思い出させる。

 次の日は日帰りでタンジェからほど近いシャウエンという街に行く予定だった。一面を青で塗られた旧市街で有名な、猫の街だ。しかしこの日の夜、またしても腹痛が僕を襲い始めた。モロッコ2度目の食あたりである。タンジェはやはり僕みたいなあまちゃんが来るには危険な街だったということか。もうシャウエン行きのチケットは取っていたので、次の日に行ってみるには行ってみたのだが、下痢と寒気をどうすることも出来ず、ホテルの部屋を借りてほとんど一日中床に伏せていた。こうなると街に広がる美しい青も、僕の今の気分を表しているようにしか見えない。こうしてヒーヒー言いながらタンジェへと舞い戻ったのだった。

 

 

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限りなく透明に近いブルーが広がるシャウエンの旧市街。お腹さえ調子が良ければ、きっと楽しめただろう。猫と青の街ということで、オリーヴ女子みたいなガールがたくさんいた(肩に下げているのは、オリンパスのPEN!)。

 

 次の日、僕はモロッコを離れることにした。タンジェのフェリー港は、街から少し離れたところにあり、そこまでの1時間ほどの道程を、バスは窓に輝く海を映しながら進んでいった。タンジェも結局、ろくに観光出来ないままに離れることになった。ラマダンの終りを数日に控えたタンジェは、少し浮き足立っているように見えた。ラマダンと共に始まったこの旅は、どうやらラマダンと共に終るようだ。

 きっかり1時間半遅れて、フェリーは停泊場へとやって来た。大きく体を揺らしながら、遅れたことに悪びれた様子も無く乗客の方へと大口を開け、そこから車が雪崩れ込んでくる。やはりこのスタンスがモロッコのようだった。もう慣れたことに小さく頷きながら、僕はフェリーへと乗り込んだ。

 デッキから眺めるモロッコの大地は、夕陽に照らされて輝いていた。こうして旅した後も、その正体は判然となるどころか、ますます分からなくなる国だった。そして、だからこそ面白かった。この魅惑的な“分からなさ”こそ、昔から多くの人々を惹きつけたのではなかっただろうか。バロウズもジミヘンもブライアン•ジョーンズも、それに魅了されたような気がしてならない。アフリカという未知の大陸の、ここはまだほんの一端なのだろうが、その不思議なビートは確かに僕を打った。

 ジブラルタル海峡の光る波が、アルへシラスの大地を白く白く映していた。