ワンダーフォーゲル

 2つの山を結ぶ列車はトコトコと山あいの道を進んでいく。隣の席では目の青い愛くるしい子どもたちが戯れ合っていて、それを母親が優しくたしなめながら、こちらに向かって「すみませんね」というように目配せしている。僕としてはそれまでの曇天が晴れ渡るような気持ちのよい光景だったので、そんなこと無いですよ、という風に彼らに向かって笑ってみせた。そんな長閑な列車はフランスとスイスの国境に差し掛かろうとしていた。

 スペインを離れた後に、フランスのリヨンという街でしばらく過ごした僕は(リヨンでの日々は本文では省くが、素晴らしい街だった)、次の目的地をアルプスにした。アジアにはヒマラヤという壮大な山脈があったが、ここヨーロッパにも素晴らしい山々がある。それがアルプスだ。アルプスも昔から憧れで、例に漏れず詳しい知識は皆無なのだが、牧歌的な家々が山の斜面に建ち並び、その先に雪化粧をした美しいアルプスのある風景を、山岳列車に乗って見てみたいとずっと思っていた。アルプスと一口にいってもたくさんの山があるのだが、モンブランマッターホルンという2つの山を見に行くことに選んだ。この2つが特に憧れだったのだ。

 

 f:id:wonderwalls:20171020091244j:plainリヨンは映画を発明したと言われるリュミエール兄弟の出身地。彼らの自宅は現在博物館になっており、彼らの歩んだ軌跡を知ることが出来る。そしてその博物館近くにあるこの出口こそ、世界初の映画である『工場の出口』のあの出口なのだ。ここから映画が始まったのかと思うと、感動を禁じ得ない。ちなみにこの映画は普通にYou Tubeで見られるのでまだの方は是非。

 

 リヨンから東へと進んだスイスとの国境近くに、シャモニーというモンブランの麓の町がある。都市を離れた列車は郊外の田舎町を車窓に映しながら、快適に進んでいく。田舎町には必ず小さな広場と教会があり、それらを中心に緩やかに集落が形成されている。その合間に時折牧草地が見え、羊や牛がゆったりとした動作で草を食んでいる。どこまでもどこまでも穏やかな光景だ。そしてしばらくすると町はもう見えなくなり、代わりにそびえる山々や大きな川が現前に広がってきた。シャモニーが近づいているのだろう。

 2度ほど列車を乗り換え、最後に山岳鉄道のような小さな列車に乗り込むと、車体が緩やかに傾き上方へ位置するシャモニーへと登り始めた。天気は残念なことに曇り空で、他の乗客たちはしきりに空の様子を気にしている。そして30分ほどで、僕たちはシャモニー駅へと降り立った。

 シャモニーはアルプスによって栄えた山の町で、非常にコンパクトながらホテルやレストラン、本屋から登山用品店まで必要なものは全て揃っている気持ちのよいところだ。何といってもその景観が可愛らしく、クリスマスプレゼントのおもちゃのような愛くるしさが町全体を包んでいる。本当はこの麓の町からでもモンブランが見えるのだろうが、その日は相変わらずの空模様で何も見えない。

 

f:id:wonderwalls:20171020100018j:plainこれがシャモニー駅。シルバニアファミリーみたいな可愛いデザインの駅舎である。塞ぎ込みたくなるような曇天にも、辛うじてキュートさを保っていた。

 

 宿に着き腰を降ろすと、辺りを散歩してみた。モンブランの近くまで登るロープウェイは明朝に乗ることにしたので、この日は残された時間を町の探索と夕飯の調達に充てることにした。そしてこの夕飯をどうするかは非常に大きな問題だったのだ。

 第三世界からヨーロッパに入ってからというもの、その物価の高さには幾度も卒倒しそうになった。スペインへと渡るまでは自炊などほとんどしなかったが、ヨーロッパに上陸して以降はほとんど外食をしていない。話には何度も聞いていたが、やはり西欧は貧乏旅行者にとって試される大地のようだ。そして、スペインやフランスで既にヒーヒー言っていた僕は、ここシャモニーで更なる試練に向き合うこととなる。ある山小屋のトイレの壁に「物価は景気と標高によって変わるんだな」などと落書きされていたことがあったが、まさにシャモニーはそれだった。山の頂に近づき、更にヨーロッパで最も物価の高い国であるスイスに近づいたことも相まって、その価格はリヨンの頃とは大きく変わっていたのだ。その日の夜、僕はチョコチップクッキー1袋とリンゴ2個を慈しみながら食べ、空腹を忘れるためにさっさとベッドへと潜り込んだのだった。

 次の日の朝、ロープウェイが動き出す1時間前に目を覚ました。山の天気は変わりやすいが、朝の方が好天を期待出来る。宿の値段上、これ以上シャモニーに滞在するのは厳しかったので、今朝が最初で最後のチャンスだ。恐る恐るドアを開け宿の外に出てみると、そこには昨日と寸分違わぬ曇天が首をもたげて待っていた。どうやら賭けに負けたようである。

 何も見えない景色を見にロープウェイに乗ることにはかなり悩んだが、ここまで来て何もせずに帰るのもまた腹立たしい、というより情けない。ここから見ると厚い雲に覆われているモンブランだが、展望台まで登ればもしやその姿が見れるかもしれない、という有り得ない妄想まで膨らました結果、これも記念ということでロープウェイに乗ることにした。

 ロープウェイは僕のような観光客や、展望台から登山を始めるクライマー達を乗せ、勢い良く上昇を始めた。外は相変わらず厚い霧に覆われているので山の様子はあまり望めないが、時折その切れ間から美しい白を纏った岩肌を見ることが出来た。そうして展望台に辿り着いた。

 山肌にへばりつくように建つロープウェイ駅を出るとすぐに、猛烈な寒さが辺りを襲った。当然のことながら、夏だろうが冬だろうがモンブランは寒い。急いで展望台の中に入った。そこは大きく2つの部分に分かれており、カフェや土産物屋のある棟と、これから登山を始める人々が準備をする棟だ。あたりをグルリと回ってみると、エレベーターで屋上の展望台に出てみることにした。いよいよモンブランと対峙する瞬間である。

 とは言ってみたものの、いざ展望台に出てみるとやはりそこは吹雪の銀世界だった。モンブランどころか足先にある自分の靴が見えるかどうかも怪しい。ここまで来たのだからと目の前の景色をしばし眺めていたが、途中でどうしようも無く虚しくなり、スゴスゴと来た道を引き返した。自然のことばかりはどうしようも無い。しかし晴れた山より悪天候の方が記憶に残ることもある。現にあの展望台で見た、これからモンブランに登らんとする登山隊の勇ましさは、今でもこの目にしっかりと残っているのである。

 

 f:id:wonderwalls:20171020092811j:plain荒れ狂うモンブランへと向かうクライマーの人々。

 

  愛くるしい子どもたちとその母親もいなくなり乗客もまばらになった頃、列車は終着であるツェルマットに辿り着いた。そして夕暮れに佇む街から目を上げると、そこにはもうマッターホルンがあった。

 宿はマッターホルンを眺めながら歩いた道の先にあった。通されたドミトリーはハリーポッターが昔住んでいたような屋根裏部屋で、これで40ユーロであるからスイスは恐ろしいのである。着いた頃にはもう9時を回っており、頼みの綱であるスーパーマーケットは全て閉まっていた。レストランはあるのだが、1皿が最低でも10ユーロはするのでとてもじゃないが入れない。

 うーんと唸っていると、同じ部屋の2人組が話しかけてきた。彼らは韓国人の夫妻で、新婚旅行で世界を回っているのだそうだ。彼らに尋ねてもこの時間に空いているスーパーは無かった。今日は空腹を我慢して床に着いて、明日の朝まで待とうかなと考えていると、夫妻がこう言ってきた。

「今から夕食を作るんだけど、よかったら君も食べるかい?」

 何と夫妻は僕のことをあまりに可哀想に思ったのか、彼らの夕食を分けてくれると言うのだ。ここスイスではスーパーの品物さえも決して安くは無いので、人にお裾分けをするのもそう気軽なことでは無い。さすがにそれは悪いと思い断ると、彼らは気を使わなくていいから来なさいと僕をキッチンまで案内してくれた。

 そうしてテーブルには彼らが本国から持ってきたインスタントラーメンと、ウインナーにサラダ、ビールにオレンジジュースと豪華な夕食が並んだ。そして自分で食べるより前に、僕に食べなさいとしきりに勧めてくれた。あまりの優しさと韓国ラーメンの辛さ(彼らに言わせれば、日本でも有名な辛ラーメンは辛いうちに入らないそうだ。このラーメンは夫妻でもむせるほど辛かった、がそれ以上に美味かった)に涙を流しながらいただいた。しかしどうしてここまでしてくれるのかと思っていると、彼らは日本でボランティアをしたことがあると話してくれた。その時の人々がとても優しかったから、これはその時のお返しなんだよ、と言っていた。何とも嬉しい話だった。そして自分1人の行動が国全体の印象を決めることになるんだな、と身が引き締まった。夫妻は日本の映画が好きなようで(しかも『百万円と苦虫女』や『かもめ食堂』と言ったサブカル女子好みのセレクト)、ビールを飲みながらそんな話で盛り上がった。

 次の日の朝、街を離れる夫妻と別れの挨拶を交わすと、マッターホルンへと向かう山岳鉄道の切符を買いに駅へと向かった。昨夕の快晴はこの日も続いており、宿を出るとすぐにマッターホルンの姿が見えた。遠くからでもその雄大さは十分に分かる。

 このツェルマットの街には幾つもの山岳鉄道やロープウェイがあり、それぞれの展望台からアルプスの山々が眺められることになっている。どれも乗るとここでヨーロッパ旅を強制終了しなければならないほどに高額なので、その中からゴルナーグラート山岳鉄道に乗ることにした。これに乗ればマッターホルンを始め、モンテローザやゴルナーグラート氷河を眺めることもできる。

 やはり晴れとは気持ちの良いものである。山岳鉄道の乗車までの時間を街の散策に充てることにした。マクドナルドのコーヒーがSサイズで3ユーロしたことに軽く驚きつつ(『日本以外全部沈没』ではうまい棒が1本10万円だったので、それよりはマシと思うようにした)、ツェルマットの街をフラフラした。この街もシャモニー同様にコンパクトな山の街だが、シャモニーよりもレストランやお店の数は多く、より華やかな印象を受けた。中心街の終ったその先には、『アルプスの少女ハイジ』の世界に出てきそうな小さな山小屋が緑の山肌に点在し、初夏の穏やかな陽光を受けて気持ち良さそうにしていた。そこにはトレッキングコースもいくつかあり、小さな子どもからお年寄りまで思い思いにスイスの大自然を満喫している。どこを切り取っても絵になる街だ。

 

 

f:id:wonderwalls:20171020093312j:plainツェルマットの街並み。レストランやカフェはどれもオシャレでステキなのだが、べらぼうに高いのでおいそれとは入れない。お年を召した老夫婦がチーズフォンデュを仲良く食べながらワインを飲んでいた。多分こういう年齢層のこういう過ごし方がベストな街。

 

 山岳鉄道は駅を意気揚々と出発し、展望台へと向けて登り始めた。段々とツェルマットの街が小さくなってゆく。ちなみにマッターホルンは駅に乗る前からずっと見えている。展望台に着いて遂にご対面!というわけでは無いのでそういった感動は無いが、徐々に近づいてくるマッターホルンはその雄大さを増していくので、その味わい方もこれまた良いのである。

 列車はいくつかの駅を経由して終着であるゴルナーグラートへと辿り着いた。そこには360°パノラマのアルプスが快晴の中に広がっていた。混じり気の無い白に覆われた山々が一同に会し、僕らを囲んでいた。澄んだ空気と景色、それ以外には何もいらなかった。そして周りの山々から少し離れた向こうに、マッターホルンは変わらず聳えたっていた。遂に晴れたアルプスに出会えたのである。

 ニコンのカメラを構え、透き通った空気をも写すように、静かにシャッターを切った。

 

 

f:id:wonderwalls:20171020094200j:plainマッターホルン。この聳えるフォルムが印象的だ。この頂点から見える景色はどんなだろう。

 

f:id:wonderwalls:20171020094714j:plain展望台の様子。ここから少し登ったところにカフェなんかもある。こんなところで飲むコーヒーは格別だろうなあ。飲まなかったことをひどく後悔している。